聖書の全体を聖句のコンテクストとするときにはじめて、聖句はその意味のすべてを響かせるのです。これが『旧約聖書』の終わりなき注解と呼ばれるものです。(中略)注解すべき聖句の前後の二、三の聖句だけがコンテクストをなすのではありません。ひとつの聖句の完全な解釈のためには書物の全体が必要なのです。
エマニュエル・レヴィナス(内田樹訳)『観念に到来する神について』国文社、1997(1982)、p,177
幸せとはどういうことか、それを知ることができなかった人のために、十分に感じとらねばならない。季節の移ろいを感じ、光や風やにおいを感じ、私の体が外界と呼吸しあうのを十分に感じとろう。
野田正彰『背後にある思考』みすず書房、2003、p,41
ファシズムはかつての装いを一変して、あくまでも優しく道理にかなっているかのごとくに振る舞っているのである。
辺見庸『自分自身への審問』角川文庫、2009、p,150
M・スコット・ペック(森英明訳)『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学(原題:People of the lie)』草思社、2011(1983)
著者は診療室で出会った邪悪な人たちとの会話を再現し、その巧妙な自己正当化のための嘘の手口と強烈なナルシシズムを浮き彫りにしていく。そして著者は、「邪悪性」を科学の対象とするように提案する。
もちろん、「邪悪性」を科学の対象とするというのは価値判断を含んだ提案だ。確かに科学は価値観を厳密に排除する。しかし、この傾向も今では変わりつつある。宗教的価値観や宗教的真理を除外した科学は、究極的には「ドクター・ストレンジラブ」的な軍備競争の狂気となり、また、科学的自己認識や自己監視を欠いた宗教は、南米ガイアナのジョーンズタウンの「人民寺院」に見られた、ラスプーチン的狂気の様相を呈すると著者は指摘する。科学と宗教の再統合を迫る要因は数多く見られ、その一つが悪の問題である。悪の心理学を今こそ確立せねばならない、それが著者の提案であり願いである。
「悪は精神を殺す」と著者は指摘する。邪悪な人は他者を破壊する。しかも、驚くべきことに加害者はそれにいささかの懐疑も自己嫌悪も抱いていないのだ。
また、邪悪な人は嘘を吐く。それも一度や二度ではなく、一貫して定常的に嘘を吐く。しかも、おそらく嘘を吐いている自覚さえない。そしてそれは良心の欠如ではない。
更に、邪悪な人の特徴として、問題から常に逃げようとする、正しい道ではなく安易な道を求める、自己批判や自己嫌悪ができない、完全性という幻想に固執することが挙げられる。完全性という幻想を維持する、あるいは「善人」と見られるためなら何でもするほどに彼らは勤勉だ。それがつまり、悪性のナルシシズムである。
悪性のナルシシズムの特徴として、屈服することのない意志を著者は挙げる。精神的に健全な大人であれば、それが神であれ、真理であれ、愛であれ、あるいはほかの形の理想であれ、自分より高いものになんらかの形で屈服する。健全な大人であれば、自分が真実であってほしいと望んでいるものではなく、真実であるものを信じる。ところが、邪悪な人たちはそうはしない。自分の罪悪感と自分の意志とが衝突したときには、敗退するのは罪悪感であり、勝ちを占めるのが自分の意志である。
なぜ「邪悪性」を科学の対象とし、その特徴を分類し、しかるべきカテゴリーに分ける必要があるのか。そうすることによって、邪悪な人及びその被害者の治療に手をつけられるようになるからだ。
そう、著者は本書で邪悪な人を糾弾したり断罪したりしたいのではない。彼ら及び彼らに損なわれた人たちの治療を目指している。だから、悪の心理学は愛の心理学でもある。邪悪な人に対して何らかの共感を抱き、また慈愛をもって接するのはひどく困難である。それは本書での著者と患者のやり取りを見ればおわかりになるだろう。しかし、そこで治療を諦めてしまえば、邪悪な人に損なわれる人の治療さえできなくなる。
本書は、「あの人は救いようのない邪悪な人だ」と断罪し、溜飲を下げるのを目的とはしていない。私は、本書に出てくる邪悪な人々に嫌悪感を抱き、またこれまで出会ってきた人々で定常的に嘘を言い、混乱を与えた人たちが「邪悪な人」だったと思いいたったものの、読み進めるに連れて、そうした人々に憐れみを覚えた。「はじめに」で著者が指摘するように、邪悪な人を憎むのはたやすい。しかし、アウグスティヌスの「罪を憎み、罪びとを愛せ」という言葉をそこで思い出さずにはいられない。神の慈悲がなければまさに自分が邪悪な人になっていたかもしれないことを思えば、邪悪な人を憎んで終わりという安易な道を取るわけにはいかないことに思い至る。
その一方で、邪悪な人に混乱させられ、あるいは何らかの破壊を受けたのならば、物理的にも心理的にも距離を取り、自己の回復を図るべきだ。特に「自分に落ち度があったからあの人はあんなことをしたのだ」と考えている人には、「悪いのはあなたではない」と言おう。まず自分を大切にせよという著者の助言は被害者にも当てはまる。
人の心の闇に迫り、それを心理学的に解明した本書は繰り返し読むに値する本だと思う。
キリスト教の真の功績はおそらく、愛する(不完全な)<存在>を<神>の――すなわち、究極の完成体の――位置にまで高めたことである。
スラヴォイ・ジジェク(中山徹訳)『操り人形と小人 キリスト教の倒錯的な核』青土社、2004(2003)、p,174