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読む――書物は口を利けない

 ずっと続けてきたことがある。読むことだ。自分の意思で本を読みたいと思ったのは、中学を卒業する間近であった。読書感想文の課題図書で読まされる読書は苦痛なものでしかなかった。

新しい世界に触れる喜び、新たな知識が入ってくる嬉しさ、それに虜となった。いつしか、「正しい読み方」というものに囚われるようになった。ある読み方をしなければいけないと思い込むようになったのは、おそらく教会で洗礼を受けて以降だったように思う。

 そこには、自分は間違った存在かもしれないという、自己肯定感の著しい低さに苦しむ不安があった。向き合うよりも、正しい読み方を身に着け、他の読み方を間違っていると断じて、己を守ろうとした。しかし、それは、人との間に不和をもたらし、結果、己の人生をも危うくした。

 正しいか否かに囚われなくなる上で、とても大きな作用を果たしたのは、一時期行っていたある講座である。若松英輔さんが自社で行っていた講座「読むと書く」である。繰り返し彼が言い、自身の作品で述べていたのは、読むとは何であるか、書くとは何であるか、だった。正しい読み方を言わないどころか、誤読を奨められた。

 ただ、自分の中に未解決の不安や恐怖を抱えている人には、誤読はおそろしい営みに思えるかもしれない。「正しさ」という鎧を外すことは、それが当たり前の人にとっては、多大な勇気を要するだろう。

 「本はどう読んでもいいのだ」と心底から思えたのは、安全な環境で、友人たちの支えを得ながら自分の未解決の不安や恐怖に向き合い、その源にある呪縛から解放されて後だった。

 随分、回り道をしてしまったように思うが、今は一途に読むことばかりを考え、それが正しい否かで悩むことは激減した。書かれたことだけでなく、書かれたことの奥、著者が書こうとして書き得なかったことを、静かに問いながら読んでいる。何となれば、書物は口を利かないのだから。著者と書物に敬意を抱いて読めば、何とはなしに見えてくるものがある。読むとは、文字の彼方で起こる、魂と魂の沈黙の交わりである。
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イエスはどこにいるか

 キリスト者は、毎週日曜日、教会に行く。キリスト教的には、神によって、礼拝に招かれているから行くという考え方をする。まず、己の意思に先立つ働きがある。

 しかし、常に抱かれていて、いまだにはっきりとした解決を見ない問いがある。毎週、教会に行って、そこで聖書とその説き明かしを聞くのだが、イエスはそんなことをしたのだろうか。虚心に福音書を読めば、神殿の外にいる人々のところに自分から出向き、人々と交わった彼の姿がそこかしこにある。教会で、神が待っているというのは、本当なのだろうか。

 「私のイエスは、「教会」には留まらない。むしろ、そこに行くことをためらう人のそばに寄り添っている。福音書に描かれているイエスは、神殿で人々を待ったのではない。彼の方から人々のいるところへ出向いていくのである。」(若松英輔『イエス伝』中央公論新社、2015)
 
 毎週日曜日に教会に行って、聖書を聞くことの起源が聖書のどこにあるのかとか、どのようにこれが整えられてきたかというのは、さしあたってどうでもよい。それよりも切実なのは、イエスに出会えるところはどこなのか、である。

 『イエス伝』は、「中央公論」誌上で連載されたものに加筆され、書籍化された。連載当時、発売日には、朝早くから営業している書店に行って購入し、貪るようにくり返し読んだ。無数の問いを抱いて歩んだ日々が、むなしく過ぎ去ることはなかったと知った日々だった。「教会」の外に出なければ、コトバに触れることはなく、もしかしたら、信仰を失っていたかもわからない。

 イエスに、あの方に出会いたいという思いさえあれば、そこに彼は寄り添う。その素朴な思いが、初めにあったことを、この書物は、やわらかな筆致で思い出させてくれる。まさにあの時期、コトバを切実に求めていた。

ウナムーノあるいは執行草舟との出会い

 執行草舟の『「憧れ」の思想』PHP研究所(2017)が届いた。少しだけ読んだが、熾烈な炎の人、それが著者の印象である。長い人生の中で浄化され、精髄だけが残ったような、静謐な火である。

 数日前まで、執行草舟の名は全く知らなかった。5月31日(木)、仕事の帰りに、久しぶりに寄った本屋の新刊棚で、ウナムーノをめぐる二冊の本を手にとった。まず目に留まったのが、ウナムーノの詩集『ベラスケスのキリスト』(法政大学出版局叢書ウニベルシタス)である。そこに、監訳者として執行氏の名前があったが、驚かされたのは、ウナムーノが詩集、それも、ベラスケスの「十字架上のキリスト」に観照されて紡いだ詩集を残していたことであった。

 スペインの思想家・詩人ミゲール・デ・ウナムーノは『キリスト教の苦悶』(法政大学出版局)と、ホアン・マシア神父の『ドン・キホーテの死生観 スペインの思想家ミゲル・デ・ウナムーノ』(教友社)が家にあるきりで、そう熱心には読んでこなかった。ウナムーノを高く評価したフランスのカトリック哲学者ガブルエル・マルセルを読む人は、現代ではあまりいないだろうが、ウナムーノを読む人が今でもいることに驚いた。世の中には、まだまだ知らないことが多い。

 詩集『ベラスケスのキリスト』の横に、佐々木孝『情熱の哲学 ウナムーノと「生」の闘い』(法政大学出版局)が置いてあった。迷わず、二冊とも買った。

 『情熱の哲学』の「著者まえがき」に、この本が1976年に講談社現代新書の『ドン・キホーテの哲学 ウナムーノの思想と生涯』に四つの論文を合わせて、一書として復刊したものであることが書いてある。復刊を強く後押しした人として、執行草舟氏の名前が深い感謝と尊敬の念を込めて、記されている。「実業家にして若い人たちから絶大な信望を得る著述家、同時に戸嶋靖昌記念館 館長でもあられる執行草舟氏との出会いがあった。」

 多数の著述をした実業家という存在に、私はあることがあって、どうしても警戒の眼差しを抱いてしまう。しかし、アマゾンで執行氏の本のタイトルを見て、また『ベラスケスのキリスト』の監訳者まえがきの文章を読んで、「この人の言葉を読んでみたい」と強く感じた。

 「ウナムーノの著作群を、私は死ぬほど読んだ。ウナムーノを読むことは、自己が生きることよりも重要だった。それが、私の青春だった。ウナムーノはその思想の中に、自己の生命を投げ捨てている。それを読むことによって、私は自己のもつ卑しさと対面していたのだ。それは戦いであった。」

 これは文字通り受け取ってよい、執行氏の真摯な告白である。自己の生命を投げ捨てるほどの戦いをしたものだからこそ、ウナムーノの境涯を精確に看破できたのではなかったか。

 「「何ものか」を乗り越えたとき、我々は新しい希望と邂逅する。死ぬほどの苦しみが、本当の故郷へ我々を誘ってくれる。」

 力に溢れた、さわやかな、励ましの言葉であるように感じられた。そして、『根源へ』(講談社、2013)と『「憧れ」の思想』(PHP研究所)を求め、今日、届いた。『「憧れ」の思想』の冒頭に、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』の一節が引かれている。

 「ただ憧れを知る人のみが、わが悩みを知り給う」

 オーストリア生まれの哲学者・神秘家のルドルフ・シュタイナーを思い出した。シュタイナーは多くの著述をするだけでなく、教育にも深く関わり、藝術の発展にも大きく寄与した、多面的な活動をした人である。もしかしたら、執行氏からしたら、シュタイナーと共振する面があるという感想は、迷惑かもしれない。しかし、そうであろうとなかろうと、自己の道程を誠実かつ率直に、血と肉でもって語ろうとするその姿勢に、深く打たれた。

 ここ数週間、何とも言いがたい、もがきと苦悩の最中にあり、それは今も止んでいない。傍目には、真面目に職務に励み、教会生活を送っているように見えただろうし、実際、そのいずれにも手を抜いたつもりはない。だが、それでも、魂の底で感じる、「何かを見失っている」という感覚は拭い難いものがあった。

 振り返ってみれば、迷いを抱えている最中、本屋に行くと、その来歴をよく知らない人の本に招かれ、読み、人生の歩みが変わっていくことが何度かあった。大学生の頃には、エマニュエル・レヴィナスとヴラディミール・ジャンケレヴィッチに出会った。教会で失意の経験をした後、若松英輔の『魂にふれる』『イエス伝』を読んで、求めるものを見つけたように感じたものだった。他にもいくつかあるが、今は、執行草舟であり、ウナムーノであり、オルテガであり、マルセルであるような気がする。

 この人たちを読むことが、自分をどこへ連れていくのか、知らない。だが、本が強く招いている。応える以外、なすべきことはない。読む、それだけだ。血で書かれたものは、血で読まなくてはならない。

霜山徳爾の言葉

病む者は回復を願い、弱い人間は健康を求める。きわめて自然なことである。現代の医療もこれを当然とし、そのヒューマニズムもこれを基盤とする。それはそれでよい。しかし人間性はそれほど単純だろうか。

 霜山徳爾『人間へのまなざし』中公叢書、1977、p,8

バレンタイン・デ・スーザの言葉

毎日の出来事をそのまま味わうこと。日々の生活の中で神様と出会うこと。これが大切です。

 バレンタイン・デ・スーザ『神様は私たちと共にいる』ドン・ボスコ社、p,15

Appendix

プロフィール

EMI Takashi(ヒソカ)

Author:EMI Takashi(ヒソカ)
 2005年に神経性疾患を発病し、体調記録をつけるためにブログを始めました。そして、読書能力の回復に伴って、本のレビューを書くようになったものの、最近は時間を作れず、やや休止中でございます。

 2017年3月末に5年勤めた出版社を辞め、4月から同じ宗教法人の他部局で働くようになりました。仕事そのものは、相変わらず楽しい。

 このブログでは、「扉の開いた」言葉を求めつつ、この世界に生きる一人の人間として疑問に思うことを考察していきます。

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