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ユダヤ学文献は入手しにくい

 最近、新約聖書の理解にはヘブライ文化の考え方やユダヤ教の理解が必要だと強く感じています。  イスラエルやユダヤ関係の本を出版している日本で唯一の出版社にミルトスがあります。社名は聖書に出てくる「ミルトス」という植物に由来します。  ここがユダヤ学やユダヤ教文献をわりと出しています。  もちろん、他の出版社から信頼に足るユダヤ学文献を出す方もおられますが、量としてはミルトスが多い。  そして、新約聖書...

マタイ25章後半のユダヤ的一解釈

 フランスのユダヤ人哲学者エマニュエル・レヴィナスが好んで引用したのが、マタイ福音書の25章後半の箇所です。  時間が作れなくて昨年12月の所属教会の牧師によるこの箇所の説教を聞いていないのですが、今のところレヴィナスのユダヤ的解釈が私にとって最も腑に落ちるものです。言い換えれば、牧師か信徒か問わず、今まで見聞きしたこの箇所についてのキリスト者の解釈は少しも腑に落ちませんでした。彼らの解釈は、一応それ...

時間性への敬意

 私たちの時代に流布している批評的言説は本質的に無時間モデルであって、そこには「時間性がない」のではないかというのが、最近、私が考究している問題意識の一つです。 時間性がない、というのは言い換えると、未だ到来せざる未来に対する「レスペクト(敬意)」がないんじゃないか、ということです(これはキリスト教会についても感じることです)。 「私はこの先世界がどうなるかわかる」と揚言する人を私は信用しません。 そ...

難問に繰り返し強調線を引く思考

 新約聖書の福音書で否定的に描かれている人々に、「パリサイ人」という人々がいます(「パリサイ」とは「分ける」という意味)。また、「パリサイ派」とはユダヤ教の一教派です。しかし、パリサイ派に属している者がいつでも一義的にパリサイ人であったわけではなく、十把一からげにしてしまうのは問題があるようです。 福音書での描き方が否定的なものであるので、キリスト教会での「パリサイ人」についての語られ方も肯定的なも...

ヘブライ語聖書の文書配列

 民族誌的奇習を共有している人々とだけ交際していると、人はそれが自分たち以外の人間とは共有しえないものであることをしばしば忘れてしまう。 自分たちの自明は必ずしも他者にとっての自明とは限らないという当たり前のことを忘れてしまうと、自分たちの考えを節度なく相手に押し付けるということをしてしまう。 やられる方からすれば気鬱になり、引きつった笑顔を浮かべるしかない。 キリスト者にとって、聖書とは、旧約聖...

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プロフィール

EMI Takashi(ヒソカ)

Author:EMI Takashi(ヒソカ)
2005年に神経性疾患を発病し、体調記録をつけるためにブログを始めました。そして、読書能力の回復に伴って、本のレビューを書くようになったものの、最近は時間を作れず、やや休止中でございます。

 数年前、出版社で働くようになりました。仕事そのものが面白く、その都度自分で課題を見つけて解決するというプロセスが楽しい。
 このブログでは、「扉の開いた」言葉を求めつつ、この世界に生きる一人の人間としてキリスト教・世界に対して疑問に思うことを考察していきます。単に評論家的な批評をするのではなく、自分でできることを示せるような、自分の持ち場に立った言葉を紡いでいきたいです。

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