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『司法改革の時代 検事総長が語る検察40年』

 但木敬一『司法改革の時代 検事総長が語る検察40年』中公新書ラクレを読了。 著者は東京高等検察庁検事総長まで務めあげ、平成20年に定年退官し、現在、弁護士として働いています。40年という歳月が日本国民にとって、法務検察にとって、いかなる意味があったのかを検事としての経験と広い見識に裏打ちされた、具体的でわかりやすい言葉で記しているのが本書です。 当初、無辜の民を救いたいと弁護士を志したものの、実務に携...

『悪について』

 中島義道『悪について』岩波新書を読了。 本書では様々な文学書や宗教書の事例を引きつつ、カント倫理学を<悪>の側面から読み解いています。しかし、それは本書がカントの解説本やカントの哲学研究であることを意味しません。別の本で著者は、50歳になった時、カントの哲学研究者であることをやめたら(つまり、カントの解説をせず、カントについての研究論文を書かず、学会で発表することをやめたということ)、全身でカントの...

パレーシア

 本日の朝拝では、「愛を挑む」と題する、マタイ10:34-39に基づく説教がなされました。 (34節)「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。(35節)わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。(36節)こうして、自分の家族の者が敵となる。(37節)わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたし...

小説の主人公に見る道徳的人間

 三浦綾子『裁きの家』(集英社文庫)の主人公清彦は、外から見た場合は法に触れる行為をしない人間であることは読んだことのある方ならご存知でしょう。 とはいえ、彼は道徳的な人間ではないし、ましてや道徳的に善い人間でもありません。 道徳的人間とは、自分の信念を貫くことが他人を不幸にするという構造のただ中で、信念をたやすく捨てることもできず、とはいえ自分の信念ゆえに、他人を不幸のうちに見捨てることもできずに...

私の自己認識

 私という人間は聖人君子でもなければ極悪人でもない。英雄でもなければ道化でもない。しかし時と所と状況によっては、全てになりうるのである。  以上が現時点での私の自己認識ですが、奇しくも10代後半にフランスのモラリスト・シオランを読んだ時、「こんな人になりたいな」と想像していたあり方に近づいたようです。 「モラリスト」は、日本語では「道徳家」とか「道学者」という変な訳語がありますけれど、モンテーニュの...

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プロフィール

EMI Takashi(ヒソカ)

Author:EMI Takashi(ヒソカ)
2005年に神経性疾患を発病し、体調記録をつけるためにブログを始めました。そして、読書能力の回復に伴って、本のレビューを書くようになったものの、最近は時間を作れず、やや休止中でございます。

 数年前、出版社で働くようになりました。仕事そのものが面白く、その都度自分で課題を見つけて解決するというプロセスが楽しい。
 このブログでは、「扉の開いた」言葉を求めつつ、この世界に生きる一人の人間としてキリスト教・世界に対して疑問に思うことを考察していきます。単に評論家的な批評をするのではなく、自分でできることを示せるような、自分の持ち場に立った言葉を紡いでいきたいです。

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