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選びとは有責性の過剰である

 ユダヤ教の選民思想、つまり神によって選ばれた民ということが、しばしば特権と理解されています。 無邪気にそう語るキリスト者もいます。すなわち、ユダヤの民は、神によって選ばれていると思いあがっている、そう理解されます。 しかし、それは事実ではありません。また、正統的なユダヤ教の考えでもありません。  ユダヤの民の選びとは、常に有責性の過剰として、他の人々よりも自己のほうにより多くの有責性を求めるよう...

神を自分のために用いることは堕落である

 先週、一人の友人より、ある牧師の話として「日本のキリスト者の大多数が自分の救済のために、信仰を持とうとしている」ということをお聞きしました。 自分の救済をまず志向していますから、どうしても他者への気遣いは乏しくならざるをえません。 むしろ他者よりも自分を気遣い、自己を守るために「信仰」を用いる倒錯に陥ってしまう。 このことを、日本のキリスト者が自分にとって都合が悪くなると「信仰」を持ってくる悪癖...

私達は愚鈍で弱いからわかりやすい話を求める

 旧約聖書の英語表記は「the Old Testament」です。 ところで、「testment」という単語には「遺言」という意味があります。 では、イスエラエルの声は「遺言」なのでしょうか(この「イスラエル」は、民族の名を指すだけではありません)。 キリスト者は、この「遺言」を新約の展望の中に位置づけます。 言い換えれば、それは新約聖書がなければこの「遺言」はわからないという、いささか慎みを欠いた言明としてあらわれます。...

見るではなく、聴く

 最近、聞くことへの関心を惹起されるような事柄によく遭遇します。 聖歌隊では「意識的に聞くというより、聞いているという状態が当たり前であるように」と先週指導され、オルガンの先生からも各声部の音を聞くということが言われています。  聖書には、見ることで形成される表象についての言い回しが実はあまりありません。 アブラハムは神を見たのではなく、神の呼びかけを聞いて、父の家を離れ、見知らぬ土地へ赴きました...

師弟関係とはどんな関係か?その2

 10月18日の文章の最後に、私は「レヴィナスやジャンケレヴィッチを勝手に師として仰いでいる」と書きました。 これはいささか誤解を招く表現でした。こう書くと、「弟子」の立場を自ら選びとったかのように思われます。 しかし、そうではなくて、レヴィナスを師と想定して、彼のテクストを読むという営みそのものに、私が「弟子」としてふるまうことが構造化されており、この立場は必然的なのです(とはいえ、これは私にとって...

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プロフィール

EMI Takashi(ヒソカ)

Author:EMI Takashi(ヒソカ)
2005年に神経性疾患を発病し、体調記録をつけるためにブログを始めました。そして、読書能力の回復に伴って、本のレビューを書くようになったものの、最近は時間を作れず、やや休止中でございます。

 数年前、出版社で働くようになりました。仕事そのものが面白く、その都度自分で課題を見つけて解決するというプロセスが楽しい。
 このブログでは、「扉の開いた」言葉を求めつつ、この世界に生きる一人の人間としてキリスト教・世界に対して疑問に思うことを考察していきます。単に評論家的な批評をするのではなく、自分でできることを示せるような、自分の持ち場に立った言葉を紡いでいきたいです。

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