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義と愛の終わりなき循環

 時に、長く信仰生活を送っているクリスチャンの中にこう言われる方がいます。 「旧約の神様は裁きの神様だが、新約の神様は慈愛の神様だ」という二分法です。そして、大抵こう続く、「だから、新約聖書だけ読もう」と。 けれども、こう言われる方は旧新約聖書を丁寧に読んだことがないのでしょう。 なぜか自称「熱心に聖書を読んでいる」方がこれをよく口にされるところを見ると、彼らの言う「熱心な聖書読解」とはどんなもの...

答えのない問いへの答え方

 「知識」というのは基本的に一問一答のクイズ形式でフォーマットされています。 「タイ・カッブの最高打率は?」「0.420」 「ニール・ヤング、ジム・キャリー、マイク・マイヤーズ。共通点は?」「カナダ人」というふうに。 しかし、実際に人生の岐路でそういうクイズ形式の問いを差し向けられるということは起こりません。 実際に人生の岐路(めいたところ)で私たちが遭遇するのは「答えがもともとない問い」と「答えがまだ...

適切に自己評価するには?

 自分についての自己評価と外部評価には常に落差があります。  そして、「自己評価」と「外部評価」の間にずれがある場合、外部評価の方が適切であることがしばしばです。  さて、教師が何らかの成績評価を行う際、その評価の仕方が教わる側の自己申告に基づく場合、どうしたらよいでしょうか。  自己評価よりちょっと高めに点をつければあとで「自分は狡い人間なのでは」とくよくよすることになる。自己評価よりちょっと低め...

学者向きの人とは?

 内田樹先生の影響(むろん、それは勝手に私がそう考えているに過ぎないが)もあって、「存在しないものがすべてを意味として編制する」という逆立ちした議論に私は惹きつけられます。 どうして私が「存在しないものがすべてを意味として編制する」という逆立ちした議論に惹きつけられるかというと、おそらくそれが「実証的な研究」の意味についての再考を迫るからです。 もちろん実証的な研究は学術的に大きな意味をもつ(実証研...

原則的であることについて

 師と仰ぐ内田樹先生に倣って、私は、原則として「ことに臨んでは無原則に対応する」ことにしています。 原則的にふるまうのはよいことであると言われるけれど、これは半真理であり、取り扱いに注意が必要です。 というのは、原則的であることが必須である局面があり、原則的ではない方がよい局面があるからです。 その見極めがむずかしい。そして、見極めを助けるマニュアルもない。 例えば、親は子どもに対して原則的に対応...

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プロフィール

EMI Takashi(ヒソカ)

Author:EMI Takashi(ヒソカ)
2005年に神経性疾患を発病し、体調記録をつけるためにブログを始めました。そして、読書能力の回復に伴って、本のレビューを書くようになったものの、最近は時間を作れず、やや休止中でございます。

 数年前、出版社で働くようになりました。仕事そのものが面白く、その都度自分で課題を見つけて解決するというプロセスが楽しい。
 このブログでは、「扉の開いた」言葉を求めつつ、この世界に生きる一人の人間としてキリスト教・世界に対して疑問に思うことを考察していきます。単に評論家的な批評をするのではなく、自分でできることを示せるような、自分の持ち場に立った言葉を紡いでいきたいです。

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