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[C41]

聖書を読みつつ、読んではいるが、それは誤読であって、誤読を重ねて、重ねているうちにいつのまにか、正しい読み方に転ずればよいとは思いますが、いっこうに誤読を重ねているうちに生涯を終えてしまうのは、ちと悲しい気もしますね。
  • 2011-04-07 01:59
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[C43]

>剛さん
 コメント感謝です。「正しい読み方」というのは、一つしかないから「正しい読み方」なのです。「正しい読み方いろいろ」というのはありません。「この箇所については、この読み方が正しい」ということで合意ができてしまったら、もう誰もその箇所を読まないでしょう。それは面白くない。ですから、「誤読しているかもしれんが、今の私はこの聖書箇所をこう読みとった」というのは、そんなに否定するものではない、というのが私の考えです。また、「誤読しているかもしれない」とどこかで考えている人は、無茶苦茶な読み方をしませんし、他人の解釈にも寛容になれるはずです。反対に、「ここはこうしか解釈できない。これが絶対正しいんだ」と考える御仁は、聖句解釈だけでなく、言動においても大抵、とても排他的です。

 また、例えば10歳の時の読みが後になって「誤読」だったとわかるのは、慣れないながらも10歳の時にその箇所を読んでいたからこそ、生まれる判断です。聖書に限らず、偉大なテクストが偉大であるのは、そういう誤読を許容する豊かさを備えた点にあります。

 文脈を考慮し、聖句の前後関係や文書全体の枠組みにきちんと目配りしても、なお多様な解釈が生まれ得る、だから聖書を読むのは面白い、私はそう考えています。

[C78] 素人は注解書を読むべからず

ひょんなことでこの表題を見つけ読みました。ヒソカさんの内容に対して理解できます。私は信者ですが、ヒソカさんからすると信者にならないかもしれません。私はいくつかの聖書を持っています。新共同訳・新改訳・講談社・新世界訳・口語訳‥‥。
これらは洗礼を受ける前に読んでいた「聖書」と言われるものです。何故こんな種類を読まないといけなかったかというと、「どれが本当の聖書」ということからでした。新共同訳を読んで「聖書ってこんなにやさしいものであるのか」という感想があり、口語訳では「えっなんて哲学的?」、そして新改訳では「あれ、今までとしがった異国感」‥‥。一つの聖書でコツコツと取り組んでいけばよかったんでしょうが、聖書への不信感からこのようになりました。
 現在に至るまでいろいろ経過はありますが、とりあえず新改訳を基準にして牧師のメッセージを聞いてます。聖書は訳者の観念が入っているということに気が付くのが遅く遠回りになってしまったということが今の結論です。ですから、ある意味註解書と同じな私には観点があります。
 註解書にしろ聖書にしろ、一番の間違えは漢字を第一種の慣用にまとめてしまったところからあるようにあります。旧字や今使用されていない漢字、例えば「怖」「畏」「恐」「懼」「虞」同じ「おそれ」であっても状況・場面・対応する相手・時によって受け入れる印象や感情が違ってくることが「恐」という感じに集約されてしまった。このことから聖書の的確さが失われている、だから註解書がでまわる一つの原因であるように感じてます。ですからうちではうじゃうじゃ註解書があって、この牧師はこんな観点から訴えているんだと判断してます。当然これは信仰とは言えないかもしれないですが、本当に聖書に向き合うには困難な時代と強く感じてます。
もう一つ私の聖書も註解書も同じように牧師も同じであるということです。神学校で学んだテキストも同じではないでしょうか。
聖書は奥深くすんなりと理解できるものではないということはすごくわかります。ヒカソさんからみて、信仰に浅いから惑わされるということを言われてしまうかもしれません。他の箇所にも書かれているように「へりくだる」ということも、原語からくる意味とは違っている。
 この状態のままでは「神を信じて人を信じず」という方向に進む可能性はあるなぁ~、と思うこのごろでもありますが、ヒカソさんはどう思いますか? 1%の信者しかいない日本にとって99%の人が無関心なのかというとそうではないと思います。99%の中に数%はキリストへの関心を持っていますが、その人たちが教会に行きたがらないのは、情報社会にあって検索ひとつで様々な情報を得ることができ、その中で一人で考えることができる。その便利さからくる混乱から神を信じるが人への不信感という方向に向かってしまうからでもあると思います。
 註解書を読まなくてもいいの方法は聖書と聖書ができた時代や言語の意味の背景をを適切解釈した併せ持った聖書が必要だと思ってます。どうでしょうか?
  • 2015-08-03 11:24
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素人は注解書を読むべからず

 4月3日の所属教会での説教で、説教者はこんな話を紹介していました。

 数か月先の聖書箇所が発表されると、事前に注解書(コメンタリー)を読んで、「今日は、牧師はどの注解書を読んでいるかな」と予測を立てる信徒がいるという話です。

 説教者も苦笑しておられるように思えたし、私自身も以前(「聖書はまず自分で読め」)に書いたように、これは聖書に向き合う姿勢として到底真面目なものとは思えませんでした。

 説教でこの話を聞いたことを奇貨として、改めてこのことを取り上げてみます。

 まず「訓練を受けていない信徒が注解書を読むことを禁ずる」という布告を教会で出すべきだと私は提案したい。

 少なくとも、数か月先の聖書箇所が判明すると、その部分の注解書を読んで、牧師は、今日は誰のどの注解書を参照したかなと考える反面、聖書を読まないのが日常的になっているような信徒に対してはそうすべきです。

 実際、こういう人はまともに聖書を読んでいないし、どうでもいい知識に頭がいっぱいになっていて(反対に知るべきことを知らない)、注解書を読むとこうなるという悪い見本みたいになっています。

 そうかといって、何かの折に一人ひとりとっ捕まえて、諄々と「まず聖書を読みましょう」といい年した人に言う気もありません。面倒だから。

 少し前にも書いたけれど(2009年2月21日2011年2月15日18日)、私は注解書を使いません。

 注解書を読み解く訓練を受けていないために、知る必要のあることとそうでないことを区別できないのです。

 だから、読まない。

 できないことはやらない。

 加えて他に読むべき本はあるので、注解書に割く時間がないという事情もあります。

 ジャック・ラカンのセミネールと聖書の注解書のどちらを読むかと問われれば、断固としてラカンを選びます(ラカン以外に、フーコーとかロラン・バルトとかドゥルーズとかレヴィナスとかボンヘッファーとかジジェクとかでもいいんですけど)。

 また、一時期行っていた、矢内原忠雄に由来する聖書集会に来られる「信仰歴の長い」信徒の中にも、注解書を「熱心に」読まれるこの種の方がなぜか多かったです。

 なぜそういうやり方をするのかについて、いつも首を傾げていました。

 簡潔明瞭な発表をされるならいいのですが(そういう方ももちろんいます)、話を聞きたくなる話し方にも思えないし、相手の理解レベルに配慮した内容でもなく、「私はずっとこのスタイルでやってきたから我慢してください」的な態度なので(実際そう表明した人もいます)、次第に眠くなってきます(18時から始まるので、私だけでなく、多くの方は疲れています)。

 不必要にむずかしい解説は、聖書を読むハードルを高くします。

 はっきり言って、あなたたちの半可通の解説なんて聞きたくないんです(こう言うと相手は激怒するか、こちらを憐れむような眼差しをするのであまり言いません。「頭の弱い人」と見られているのでしょうか)。

 田川建三がこう言っている、荒井献がこう言っている、トロクメはこう言っている、バルトはこう言っている、などなど。

 だから、どうした?

 こういう素人の注解書読みをする人に実際に言ったことがあるのですが、こういう解説の仕方は聖書を読むという営みを不必要に難解なものにしてしまう。

 初めて聖書を読んだ人や初めて他人と共に聖書を読む場に来た人を委縮させてしまう。

 「聖書は解説書と首っ引きで読まないといけないんだ。なら、私は聖書いいです。質問も特にありません」となる。

 それの何がいいのか私にはわからない。

 人を委縮させるような聖書の解説は、「愛神愛隣」の考えと背馳します。

 更に言えば、「聖書をあまり読んでいないノンクリスチャンや信仰歴の短い皆さんに、信仰歴の長い私が御教示してあげよう」という、人を舐めた「善意」の態度にも、怒りを覚えます(言われたことがありますが)。

 そもそも聖書はすんなりわからない。

 わからないのが当然です。
 
 というのも、聖書は、気候も歩んできた歴史も生活習慣も何もかもが、21世紀に生きる日本人とは違う人々によって書かれたものだからです。

 簡単にわかると言う方がどうかしている。

 わからない中で、「こういう解釈だ、いやいや、やっぱり違う、こうかな、いやいや」と悩んで、踏み迷って、後退して、前進して、また戻って、そういう中で何かわかってくることがある。

 聖書に限らず、偉大なテクストを読む営みはそういうものでしょう。

 「○○という学者がこう言いました」ということには口がよく回る反面、自分が与えられた箇所から何を聞きとったかを言えなくなるのは、ただの思考停止です。

 「読書は、他人にものを考えてもらうことである。(中略)一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く」(『読書について』岩波文庫、1960、pp,127-128)というショーペンハウエルの言葉をもじって言えば、「一日をたくさんの注解書を読むことに費やす勤勉な人間は、しだいに自分で聖書を読む力を失って行く」となりましょう。

 「間違ってもいいから自分で聖書を読む」という冒険、それをするから聖書はおもしろいんです。

 もっとも、それは聖書に限らず、あらゆる「読む」ということに言えるでしょうが。

 真っ先に注解書を読む人は、「聖書を読んでいる」と言えるのでしょうか。

 私は言えないと思います。
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聖書を読みつつ、読んではいるが、それは誤読であって、誤読を重ねて、重ねているうちにいつのまにか、正しい読み方に転ずればよいとは思いますが、いっこうに誤読を重ねているうちに生涯を終えてしまうのは、ちと悲しい気もしますね。
  • 2011-04-07 01:59
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>剛さん
 コメント感謝です。「正しい読み方」というのは、一つしかないから「正しい読み方」なのです。「正しい読み方いろいろ」というのはありません。「この箇所については、この読み方が正しい」ということで合意ができてしまったら、もう誰もその箇所を読まないでしょう。それは面白くない。ですから、「誤読しているかもしれんが、今の私はこの聖書箇所をこう読みとった」というのは、そんなに否定するものではない、というのが私の考えです。また、「誤読しているかもしれない」とどこかで考えている人は、無茶苦茶な読み方をしませんし、他人の解釈にも寛容になれるはずです。反対に、「ここはこうしか解釈できない。これが絶対正しいんだ」と考える御仁は、聖句解釈だけでなく、言動においても大抵、とても排他的です。

 また、例えば10歳の時の読みが後になって「誤読」だったとわかるのは、慣れないながらも10歳の時にその箇所を読んでいたからこそ、生まれる判断です。聖書に限らず、偉大なテクストが偉大であるのは、そういう誤読を許容する豊かさを備えた点にあります。

 文脈を考慮し、聖句の前後関係や文書全体の枠組みにきちんと目配りしても、なお多様な解釈が生まれ得る、だから聖書を読むのは面白い、私はそう考えています。

[C78] 素人は注解書を読むべからず

ひょんなことでこの表題を見つけ読みました。ヒソカさんの内容に対して理解できます。私は信者ですが、ヒソカさんからすると信者にならないかもしれません。私はいくつかの聖書を持っています。新共同訳・新改訳・講談社・新世界訳・口語訳‥‥。
これらは洗礼を受ける前に読んでいた「聖書」と言われるものです。何故こんな種類を読まないといけなかったかというと、「どれが本当の聖書」ということからでした。新共同訳を読んで「聖書ってこんなにやさしいものであるのか」という感想があり、口語訳では「えっなんて哲学的?」、そして新改訳では「あれ、今までとしがった異国感」‥‥。一つの聖書でコツコツと取り組んでいけばよかったんでしょうが、聖書への不信感からこのようになりました。
 現在に至るまでいろいろ経過はありますが、とりあえず新改訳を基準にして牧師のメッセージを聞いてます。聖書は訳者の観念が入っているということに気が付くのが遅く遠回りになってしまったということが今の結論です。ですから、ある意味註解書と同じな私には観点があります。
 註解書にしろ聖書にしろ、一番の間違えは漢字を第一種の慣用にまとめてしまったところからあるようにあります。旧字や今使用されていない漢字、例えば「怖」「畏」「恐」「懼」「虞」同じ「おそれ」であっても状況・場面・対応する相手・時によって受け入れる印象や感情が違ってくることが「恐」という感じに集約されてしまった。このことから聖書の的確さが失われている、だから註解書がでまわる一つの原因であるように感じてます。ですからうちではうじゃうじゃ註解書があって、この牧師はこんな観点から訴えているんだと判断してます。当然これは信仰とは言えないかもしれないですが、本当に聖書に向き合うには困難な時代と強く感じてます。
もう一つ私の聖書も註解書も同じように牧師も同じであるということです。神学校で学んだテキストも同じではないでしょうか。
聖書は奥深くすんなりと理解できるものではないということはすごくわかります。ヒカソさんからみて、信仰に浅いから惑わされるということを言われてしまうかもしれません。他の箇所にも書かれているように「へりくだる」ということも、原語からくる意味とは違っている。
 この状態のままでは「神を信じて人を信じず」という方向に進む可能性はあるなぁ~、と思うこのごろでもありますが、ヒカソさんはどう思いますか? 1%の信者しかいない日本にとって99%の人が無関心なのかというとそうではないと思います。99%の中に数%はキリストへの関心を持っていますが、その人たちが教会に行きたがらないのは、情報社会にあって検索ひとつで様々な情報を得ることができ、その中で一人で考えることができる。その便利さからくる混乱から神を信じるが人への不信感という方向に向かってしまうからでもあると思います。
 註解書を読まなくてもいいの方法は聖書と聖書ができた時代や言語の意味の背景をを適切解釈した併せ持った聖書が必要だと思ってます。どうでしょうか?
  • 2015-08-03 11:24
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EMI Takashi(ヒソカ)

Author:EMI Takashi(ヒソカ)
2005年に神経性疾患を発病し、体調記録をつけるためにブログを始めました。そして、読書能力の回復に伴って、本のレビューを書くようになったものの、最近は時間を作れず、やや休止中でございます。

 数年前、出版社で働くようになりました。仕事そのものが面白く、その都度自分で課題を見つけて解決するというプロセスが楽しい。
 このブログでは、「扉の開いた」言葉を求めつつ、この世界に生きる一人の人間としてキリスト教・世界に対して疑問に思うことを考察していきます。単に評論家的な批評をするのではなく、自分でできることを示せるような、自分の持ち場に立った言葉を紡いでいきたいです。

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