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パレスチナ問題になぜ関心を抱くのか

 最初にパレスチナ問題について学んだのは高校3年生の頃だった。

 出身高校では、受験ではやらないけれども大事なことだと言って、世界史のY先生がパレスチナ―イスラエル問題の流れを数回の授業で教授してくださった。

 いささかかけ足だったので、その時はおおよその流れを追うので精一杯だった。

 ただ、イギリスの三枚舌外交は筆舌に尽くしがたいほどひどいなとはその時に思ったのを覚えている。

 もちろん、この時にはユダヤ人とかホロコーストのことは全く知らない(「ホロコースト」という表現が問題含みなのは知っている)。それが何を意味するかを知るのは大学に入って以降のことである。

 大学に入って以降、ユダヤ人の作家や哲学者に惹かれて、彼らの本を読むようになった。

 例えば、エドガール・モランやレヴィナスやジャンケレヴィッチやギュンター・アンダースやエリ・ヴィーゼルといった人々である。

 もっとも、大学生の頃は、パレスチナ問題への関心が少し薄まり、ホロコーストへの関心が高まっていたので、パレスチナ問題を深く学ぶことはしなかった。

 大学院の時、イスラエルからの一人の留学生が私の大学にいらした。

 その方から聞いたのは、「イスラエル国」といっても一枚岩ではなく、イスラエル国籍を持つユダヤ人であろうとパレスチナ人であろうとアラブ人であろうと、多様な考えがあるという、考えてみれば当たり前のことであった。

 また、そこで暮らしている人々にとっても、先行きは不透明でよくわからないと仰っていた。

 その留学生はユダヤ人であったが(初めてお会いしたユダヤ人でもある)、ユダヤ人への先入観が私にはなかったので、そのこと自体にはさして驚きもしなかった。

 お話を聞きながら、日本のマスメディアが報道しないことがあり、またそこに生きている人の声を聞かないとわからないことがあることを改めて痛感した。

 この頃には、エマニュエル・レヴィナスの『暴力と聖性』という対談集を既に読んでいた。

 レヴィナスは、インタビュアーから「イスラエルについてどう思うか」と尋ねられた際、「私はそこに住んでいるわけではないので、それについて責任ある発言はできない。それについて語るのは控えたい」という応答をしておられた。

 その応答の仕方から、ある種の節度を感じた。

 それがある種の口の重さゆえであることは、数年後にレヴィナスの『タルムード新五講話』の註を読んだ際に知った(ちなみにこの二冊の本の翻訳者は内田樹先生である。またいずれも国文社から発行されている)。

 レヴィナスやジャンケレヴィッチを通して、ユダヤ系であっても、決してみんながイスラエル国の建国やそのあり方を無条件に言祝いでいるのではないと知った。

 考えてみれば当たり前のことではあるが。

 他方で、イスラエル国の建国を無条件に讃美している人がいるのを知ったのもこの頃である。

 そういう人は、キリスト者にいくらかいたように思うが、曰く言い難い不可解さを感じたのを覚えている。

 さて、このパレスチナ-イスラエル問題については単純にどちらに味方するのかというあれかこれかでは言いたくない。

 しかし、一部のキリスト者が言うように、「イスラエル建国は神の摂理」という主張には全く同意できない(この耳で二人のキリスト者が異口同音にそう言うのを聞いた。一人は少し年上の牧師であった)。

 イスラエル国がパレスチナの人々にやったことはあまりにひどいことだ。人間が他の人間にここまで残酷になれるものなのか、愕然とさせられるひどさだ。

 例えば、ハマスとは何の関係もない民間人を虐殺するイスラエル人の側に神が立っておられるはずがないではないか。

 むしろ、抑圧されているパレスチナの側に神はおられる。それが今の私の考えだ。

 そして、イスラエルでも自らの暗部を直視しようとする人々が少数ながらいる。

 まだじっくり読んでいないのだが、土井敏邦さんが『沈黙を破る 元イスラエル軍将兵が語る”占領”』(岩波書店)という本を出しておられる。

 「占領」がパレスチナ人だけでなく、イスラエル人、特に実際にその任に就くイスラエル兵の人間性をどれほど深く損なうものであるかを、当のイスラエル軍将兵に聴くことを通して辿っている。

 もちろん、私は「イスラエル人もそれなりに苦しい経験をしているのだから、イスラエルに向かって厳しいことを言うな」と言いたいわけではない。

 このような発想は有害無益である。

 私は、パレスチナの地で、これまで何が起こり、今何が起こっているのかを知ることこそがまずなすべきことだと言いたいだけである。

 何が起こっているかを知ること、同時に自分は何を知らないかを知ること、そこからしか始められない。

 それゆえ、一部のキリスト者のように、郷愁や憧憬の念を抱いて、「イスラエル」や「パレスチナ」という言葉を口にすることは私にはできない。

 これらの単語を、中立に、価値判断を抜きにして用いることは私にはできない。

 これらの語はあまりに多くの含意を持つようになってしまった。

 ある種のキリスト者が、なぜかくも簡単に聖書の「イスラエル」と現実の「イスラエル」を同定できるのか、私にはさっぱりわからないし、わかりたくもない。

 それは一種の犯罪か悪夢のように思えるのだ。

 レヴィナスは、もしイスラエル国が聖書に適った国を標榜するならば、トーラー(ヘブル語聖書)を規範とし、それに従った歩みをしているかをチェックすべきだろうと指摘している(もちろん、実際にはそうではない。また、これも一つの考えである)。

 もしかしたら私は、「パレスチナ問題」とかっこして書くべきなのかもしれない。

 パレスチナのことを「問題」と言う語り口に含まれるニュアンスに注意するように、エドワード・サイードは促していなかっただろうか。

 なぜ「パレスチナ-イスラエル問題」に関心を抱き続けているのか、それは私自身にもよくわからない。

 少なくとも一言でそれを説明することはできない。

 パレスチナの地から遠く離れた極東の人間がこの問題を学んだところで、現実に何の影響を与えることもないと言う人もいるだろう。

 しかし、彼の地で何が起こり、今、何が起こっているのかを絶えず学び、また学ぶ中で自分にできることは何かと問い続けているならば、いつか何らかの形でより具体的な関わりのできる道が開けると私は信じている。

 何か行動を起こす時のためにも、あるいは行動するためにこそ学ぶことは大切だ。

 学んでいるからこそ、「イスラエル建国は神の摂理」と無邪気に口にするキリスト者に対して、論理的にその瑕疵を指摘できるのだ。

 学んでいるからこそ、新しく入ってくる情報を解釈でき、それがこれまでの流れの中でどういう意味を持つ出来事なのかが理解できるのだ。

 学ぶことはたくさんある。知らないこともたくさんある。知るべきこともたくさんある。

 この問題への関心は止まない。
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プロフィール

EMI Takashi(ヒソカ)

Author:EMI Takashi(ヒソカ)
2005年に神経性疾患を発病し、体調記録をつけるためにブログを始めました。そして、読書能力の回復に伴って、本のレビューを書くようになったものの、最近は時間を作れず、やや休止中でございます。

 数年前、出版社で働くようになりました。仕事そのものが面白く、その都度自分で課題を見つけて解決するというプロセスが楽しい。
 このブログでは、「扉の開いた」言葉を求めつつ、この世界に生きる一人の人間としてキリスト教・世界に対して疑問に思うことを考察していきます。単に評論家的な批評をするのではなく、自分でできることを示せるような、自分の持ち場に立った言葉を紡いでいきたいです。

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