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『自立と共生の場としての教会』

自立と共生の場としての教会自立と共生の場としての教会
(2009/03)
北村 慈郎

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 北村慈郎『自立と共生の場としての教会』新教出版社、2009

 本書が、日本基督教団における「聖餐論争」と密接に関わるものであることは理解している。けれども、この文章では全力でそのことを無視し(傍から見ても、これは瑣末なことに終始し、「議論」になっておらず、また政治的色彩の濃いものであるから)、この本を通して著者が何を言おうとしているのか、また本書を読んで私が何に気づかされたか、それを述べたいと思う。

 その前に著者に謝らねばならない。「聖餐論争」最中のプロパガンダに見事に乗せられていたかつての私は、著者の「開かれた聖餐」が何であるかをよく知りもせず、論争の文脈を詳しく知ろうともせずに、著者を見下していた。それをまず謝りたい。ごめんなさい。

 本書を一読してまず印象に残るのは、様々な問いが絶えず問い続けられていることであり、それが紅葉坂教会においても共有され、考え続けられていたということである。ある論件について性急に「答え」を出すのではなく、その問題はどういうものであり、問題を捉える見方は適切なものか、他の観点もあるのではないかというオープンマインドな姿勢が全体を貫いている。それゆえ、著者の言葉の差し出し方には力みがなく、自分と反対の意見にも耳を傾けようという柔軟さがある(もちろん、指摘すべきこと、主張すべきことは明確に述べている)。

 こんなことを書くと、「正しい聖餐」を云々する方々が、「彼は北村に洗脳された」と考えるかもしれない。しかし、そんな脅えきった中傷は笑止と言うしかない。ここには、恫喝や中傷を軽く受け流し、論理に基づいて明瞭に自分の考えを述べ、他者に己の考えを理解してもらうために性急にならず時間をかけて言葉を発し、己の言葉が他者に届くためにはどうすればよいかを常に配慮している「大人」がいる。このようなオープンマインドの姿勢はもしかしたら教団において貴重かもしれない。教会も世の中も「待つ」ことのできなくなっている中で、著者は「待つ」ことのできる方であり、腰の据わった方である。

 著者の「場としての教会」という考えに、私は「街場の現代思想家」たる内田樹先生の姿勢を想起させられた。自分の置かれた場で、聖書を読み、現実の諸問題を考え、痛みや苦しみを共有し、自分が変えられていくということを実践している著者は「街場の神学者」である。

 パウロとマルコ福音書の提示する二通りの聖餐理解があり得るという指摘は目から鱗が落ちるものであった。それは聖書をどう読むかとも関わってくることであり、また、どんな聖餐のあり方を採用するかは教会をどう考えるかと密接に関係しているという指摘も私が以前からそうではないかと考えていたことで、腑に落ちるものであった。そして、著者は、自分はイエスの聖餐理解を採用すると主張しつつも、パウロの理解もあり得ることを排除していない。「私はこう思う。あなたの考えを教えてくれませんか」、全体を通して、こういう姿勢を著者は堅持している。そういう迂遠な歩みを積み重ねることを通してしか、世界に善きものをもたらすことはできない。

 歴史が教えるように、正義を一気に全社会的に実現しようとする運動は必ず粛清か強制収容所かその両方を採用するようになる。歴史はこの教訓に今のところ一つも例外がないことを教えている。多分、著者はそういう気鬱な出来事をご自身で体験されたのではないかと思う。

 日本基督教団は国家統制の戦時下で成立した。その問題を抜きにしては今後の教団はないと著者は繰り返し指摘する。国家権力への屈従・内応によってできた教団というのは、この教団に属する全ての教会にとって、喉に刺さった魚の骨のような、できれば避けて通りたいものであろう。けれども、それこそが教団のアイデンティティを構成している。まずそこを直視すること、そこからしか問題解決の糸口は見つからないという著書の指摘はまことにその通りだと思う。

 読みながら、カミュ-サルトル論争を想起した。サルトルはきっぱりとした口調で、「歴史」の名においてカミュに筆誅を加え、それによってカミュは孤立してしまった。「あの人の言っていることはとても正しい。でも、何でかはっきりわからないけれど、何かおかしいんだよね」という感覚を「反抗」と表現し、ためらい迷いつつも、己のなすべきことをしたカミュ。カミュの反抗に似たものを、著者も持っている。著者は「煮え切れなさ」と表現しておられた。それを問いとして抱え、自分の与えられた場で務めを果たしつつ、全身で考える姿勢はとても大切なことだと思う。加えて、著者は自分こそが絶対的に正しいという態度は取らない。それは、「第3章 自分史との関わりで」で、「私と教団の正常化の人たちとは同じ穴の狢である。意識の向く方向が違うだけである」という、自分をも突き放した見方から明瞭に読みとれる。
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プロフィール

EMI Takashi(ヒソカ)

Author:EMI Takashi(ヒソカ)
2005年に神経性疾患を発病し、体調記録をつけるためにブログを始めました。そして、読書能力の回復に伴って、本のレビューを書くようになったものの、最近は時間を作れず、やや休止中でございます。

 数年前、出版社で働くようになりました。仕事そのものが面白く、その都度自分で課題を見つけて解決するというプロセスが楽しい。
 このブログでは、「扉の開いた」言葉を求めつつ、この世界に生きる一人の人間としてキリスト教・世界に対して疑問に思うことを考察していきます。単に評論家的な批評をするのではなく、自分でできることを示せるような、自分の持ち場に立った言葉を紡いでいきたいです。

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