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恫喝は福音伝道から最も遠いふるまいである

 多くの人は他人から恫喝されるのを嫌悪されるでしょう。

 私も他人から恫喝されることに強い嫌悪感を抱いています。

 恫喝によって他人を威圧することの何がよいのかよくわかりません。

 ただ、クリスチャンが他者に対して恫喝したり、不安を煽ったりすると、そのクリスチャンに対してはほとんど憎しみに近い強い憤りを感じます。

 福音を伝える人は決して他者を恫喝したり威圧したり不安を煽ったりしてはならない。

 というのも、それは福音=良き知らせを伝えるということから最も遠いふるまいだからです。

 昨日(7月31日)、教会で聖歌隊の会議がありました。

 最初、牧師が奨励をしました。

 その中で、事前に配布した「GOOD NEWS もうご存じですか? 苦難から希望へ」と題されたパンフレットの紹介をしました。「AGM 池田豊」という名前があります。

 全部で6ページの冊子で、簡単な言葉で、「人生には苦難があるが、創造主なる神があなたを造られ、あなたは愛されている」ということを述べています。

 それ自体はキリスト教的に正しい。問題は、その差し出し方です。言葉の差し出し方が、読者、特にノンクリスチャンの読者の不安を煽るものになっているのです。

 冊子では、まず、一人の大学生が自殺したことに触れ、「自殺者は、生きる勇気がなくて死を選ぶのでしょうか。それとも生きている人は、死ぬ勇気がないから今日も生きているのでしょうか。自殺する人が多いのはなぜでしょうか」と疑問を発し、「創造主が愛ならば、なぜ人生に絶望して自分で自分を殺す人がいるのでしょう」と続けた後、こう記します。

 「自殺は殺人です」と。

 人を自殺へと向かわせるのは悪であり、その悪は「創造主を受け入れないことが原因」と指摘します。

 そして、それに対する解決策、つまり「すばらしいニュース」があり、それは罪人である私たちの代わりにイエス・キリストがその罰を受けてくださり、私たちは罪から贖われていることだと言います。

 更に、「あなたは愛されている」のだから、創造主の前で罪を罪とはっきり認めることが大切だと訴え、救い主の愛を受け入れるようにと「決心」を促します。

 加えて、「自分の努力(教会へ行く、聖書を勉強する、難行苦行をする、題目をとなえる)で神や理想人間(仏)に近づこうとするのは宗教です。しかし真の救いは、神があなたにお与えになるものです。あなたはその神の愛のプレゼントを感謝して受け入れればよいのです。道徳的な教えや、宗教的熱心は人を救いません。そこに罪の真の解決はありません」という、他宗教についての無知に基づく貶下的文章を記し、キリスト教こそが真の救いを与えられるという独善的な断言が続きます。
 
 「宗教は「なす」のであり、救いは「なされた」のです」と言い、キリストを救い主と信じ受け入れた人だけが救われるのですとたたみかけます。

 そして、次が最も注目に値します。

 「この罪と死を解決してくださったイエス・キリストを信じてください。罪からの救い主を信じないで死んでしまったらもうおそいのです。このチャンスをのがしてしまったらあなたが救われる機会はもうないかもしれません」と記し、キリストを自分の救い主として受け入れる決心をせよと読者に迫ります。


 以上がこの冊子の内容です。
 
 これを「クリスチャン」が記すということに、まず私は強い憤りを覚えました。

 「もう救いの機会は訪れない。他宗教ではだめだ。キリスト教だけが救いを与えられる。早く決心しなさい」というこれは、恫喝です。こんな恫喝をするためには、膨大な前提を捨象しなければできません。

 しかし、脅えきった、不安を煽るようなこんな文句に対しては、勇気を持って断固として「そんなの知ったことか」と言ってよいし、言うべきです。

 なぜなら、人の不安を煽り、無根拠な切迫を抱かせ、熟慮する時を人から奪おうとするふるまいは、良き知らせを伝えるという「福音伝道」から最も遠い言葉遣いだからであり、そんなところに救いなどないからです。

 真実に福音に生かされた歩みをしている人は、「キリストを信じなければならない」という当為の語法を用いませんし、ノンクリスチャンに向かって恫喝したり不安を煽ったりもしません。その必要を全く感じないからです。

 以前にも記したことですが(2011年4月20日)、「あなたがキリストの救いから漏れるのは忍びない」と考え、「キリストを信じてください」と他者に迫る人は、「福音=良き知らせを伝えたい」という喜びに駆りたてられているのではなく、不安と焦慮に濡れているのです。脅えきっているのです。

 その人が願っているのは他者の救いではなく、「他者が救われない」ことから来る己の不安や焦慮からの解放なのです。
 
 ですから、その種の言葉遣いから、私を慮った響きが感じられないのは、当然なのです。

 そういう人から「キリストこそ福音なのです。良い知らせなのです」と言われて信じる人はいません。


 この冊子について、もう一つ、述べたいことがあります。自殺についてです。
 
 この冊子の著者がよくわかっていないのは、自殺を考えている人にとって自殺が殺人であることなど百も承知だということです。

 今更牧師に指摘されなくても、そんなことは熟知しているのです。

 自殺を考えている人は死にたいのではありません。生きたいのです。生きたいけれど、様々な複合的な要因のために、またどうにも道が行き詰っているように見えるために、死を選ぶ以外に道がないように思え、それを考え、実行するのです。

 20世紀スイスの神学者カール・バルトは、『教会教義学』第三巻「創造についての教説」で、「倫理」について述べています。そこの自殺について述べた箇所で、(「自殺は罪である、自殺は殺人である」からしてはいけないといった)空虚な禁止命令は、たとえ聖書から引用されたものであったとしても無駄であり、また抽象的・道徳的反論は役に立たないと指摘しています(カール・バルト(村上伸訳)『キリスト教倫理Ⅲ』新教新書、1964、p,134 以下引用は同書より)。

 そして、「自殺をしようという考えにとりつかれた人は、試みの暗黒の中にいるのだということを忘れてはならない」と強調します。

 自殺者にとって、「神はかくれてしまったのである。彼は神に棄てられたという深淵の中にいるのである。誰が、それを思い止まらせることができよう。理想や単なる要求、空虚な禁止命令などは、たとえそれが聖書から引用されたとしても、無駄なのである。人間が試みの中にいる時は、どんなことももう聞き入れられない。すべては、自殺の誘惑をひきとめることはできない。それが彼にとって不可能なことになるのは、律法のなしうるところではない」(p,134)。

 続けて、自殺志願者に対する様々な反駁の無力さを指摘します。「このような状況にいる人間は、たとえば、自分の行為は卑怯だなどと考えて自殺を思い止まるようなことはないであろう。なぜなら、死ぬことが生き長らえるよりももっと勇気のいることであるかも知れないのだから。また、社会は個人の生よりもたいせつであるというアリストテレスの教えも、この道を行こうとする人間を一人として妨げることはできなかった。また、私が自殺をすれば、隣人・家族・友人たちにどういう影響をおよぼすか、という熟慮も、あの恐るべき孤独の中で自殺を考えている人に対しては、何の力もない。さらに、自殺は後悔しても追いつかない行為であるということを訴えるキリスト教的論証もまた、後悔しても追いつかぬ罪の中で死んで行った人は、他にいくらもいるではないか、という答えにぶつかると、窮してしまうだろう」(p,135)。

 
 では、この「試みの暗黒の中にいる」人に向かって告げる言葉はないのでしょうか。できることはないのでしょうか。

 この暗黒の中にさしこむ光がたった一つだけあるとバルトは言います。
 
 それは、「あなたは生きなければならない」ということではありません。それが無駄であることを、バルトはこれまで縷々記してきました。

 そうではなくて、「あなたは生きることを許されている」ということです(p,135)。

 これは人間が語るのではなく、神だけが語り給うたし、くり返し語り給うことです。

 「生きなければならない」ということの何が間違っているのかという問いに対して、バルトは全体の前提が間違っているという。

 繰り返す。あなたは「生きなければならない」のではなく、「生きることを許されている」のです。


 「生は神から与えられた自由である。(中略)神はあなたに対して恵み深い。そこから何が生じるか。あなたは単純に、彼が神であり給うということによって生きることを許され、神が恵み深いということによって生きることができる」(p,136)。


 そして、「あなたは、どんな時も一人ではない。あなたは、生きる自由がある」と力強く述べ、ここに試みの暗さからの出口があると言います。

 ここまで言って初めて、福音と言えるのではないでしょうか。

 バルトは多くの人々の牧会者となってきた経験に基づきつつこのような言葉を語ったのでしょうし、またその言葉遣いから悩み苦しむ人の側に立とう、その人たちの友となろうという愛と労りが感じられます。彼は人生の厳しさを、生きることの辛さを知っています。


 日本は震災前から閉塞感漂う社会で、幸福指数が下から二番目の国で、生きにくさを感じるのがむしろ当たり前の社会でした。

 そういう社会で生きる私自身も、かつて自殺を考え、自殺を試みようとしたことがありました。

 私自身が自殺を考えていた時、最も聞きたくなかった言葉は「自殺してはいけないよ」とか「あなたは生きなければならない」という譴責や当為の語法であり、叱咤でありました。

 自殺が非倫理的な行為であるのをしたり顔で指摘されなくても熟知しているのです。

 私が聴きたかったのは、そういう言葉ではなく、バルトが記したように「あなたは生きることを許されている」という慰めでした。

 少なくとも、「あなたは生きなければならない」と言われて、生きる意欲の湧いてくる人はいないでしょうし、むしろ「この人は話を聞いてくれないのだな」という思いを抱くだけでしょう。

 悲しいことですが、今の御時世、自殺を考えるのは当然のことだと思います。それをあたかも異常なことのようにみなし、性急に否認したがるクリスチャンは、一体何を見ているのでしょうか。

 また、神は弱く小さくされた人々の味方であるはずなのに、自殺志願者の存在を否認したがるクリスチャンがするのは、その人たちをますます追いつめることだけです。

 ですから、彼らは世の中がよく見えていないだけでなく、聖書も読めていないのです。

 それは笑止と言うしかない。

 誰かが「自殺を考えている」と言っても、私はあまり驚きません。

 そういうことはありますから。

 その時には、自分の言葉を差し挟まず、じっくり相手の言葉に耳を傾けることこそなすべきことだろうと思います。
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プロフィール

EMI Takashi(ヒソカ)

Author:EMI Takashi(ヒソカ)
2005年に神経性疾患を発病し、体調記録をつけるためにブログを始めました。そして、読書能力の回復に伴って、本のレビューを書くようになったものの、最近は時間を作れず、やや休止中でございます。

 数年前、出版社で働くようになりました。仕事そのものが面白く、その都度自分で課題を見つけて解決するというプロセスが楽しい。
 このブログでは、「扉の開いた」言葉を求めつつ、この世界に生きる一人の人間としてキリスト教・世界に対して疑問に思うことを考察していきます。単に評論家的な批評をするのではなく、自分でできることを示せるような、自分の持ち場に立った言葉を紡いでいきたいです。

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