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『キリエ 宗教詩集』

キリエ―宗教詩集キリエ―宗教詩集
(2011/03)
ヨッヘン クレッパー

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 ヨッヘン・クレッパー(富田恵美子・ドロテア 富田裕訳)『キリエ 宗教詩集』教文館、2011(1941)

 本書は信仰詩であると同時に、時代の証言であり、一つの抵抗でもある。クレッパーの生きた時代に暴威をふるったナチスに対する抵抗であり、ナチスという姿をとって現れた悪に対する抵抗の叫びであり、神の声を押しつぶそうとする大音声に対する静かな声による抵抗である。そして、言うまでもなく、これらの詩は、嘆きの祈りであり、讃美の祈りでもある。

 そのことをこそ聴きとらねばならない。読みとらねばならない。「クレッパーのこの言葉はこういう意味である」という解説の声は無視しよう。むしろ、言葉の勢いに、言語の外に耳を澄まそう。だから、本書の内容については軽々に語ることはできない。徹底的に聖書の言葉に聴き入る姿勢が緊張感を孕みつつも、落着きのある静かな言葉を著者に紡がせた、そのことに静かに耳を傾けたい。

 クレッパーが妻と娘の一人と共に心中したのを、私は知っている。彼は何とかもう一人の娘を亡命させることには成功したが、他の家族は無理であった。彼が日記の最後に記した言葉を引用しよう。日付は1942年12月10日だ。「午後、秘密保護警察での交渉。ついに、私たちは死ぬ。ああ、このことも神のみもとにある。私たちは今晩、一緒に死に赴く。最後の数時間私たちのために闘っておられる祝福のキリスト像が、私たちを超えて私たちの頭上に立っておられる。この瞬間、私たちの生は終わる。」

 この最後の瞬間までもキリストにある希望を信じ続けたクレッパーの祈りと叫びがあたかも通奏低音のように本書に響き渡っている、それをこそ私はじっと耳を傾けたい。それに耳を澄まそうとすれば、彼の「選択」について軽々に語ることはできなくなる。それは、パウル・ツェランの、プリーモ・レーヴィの、サラ・コフマンの自死について軽々に語れないのと同じことだ。

 クレッパーの詩に対するには、沈黙し、耳傾けること、それだけが必要だ。他に何がいるだろうか。
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プロフィール

EMI Takashi(ヒソカ)

Author:EMI Takashi(ヒソカ)
2005年に神経性疾患を発病し、体調記録をつけるためにブログを始めました。そして、読書能力の回復に伴って、本のレビューを書くようになったものの、最近は時間を作れず、やや休止中でございます。

 数年前、出版社で働くようになりました。仕事そのものが面白く、その都度自分で課題を見つけて解決するというプロセスが楽しい。
 このブログでは、「扉の開いた」言葉を求めつつ、この世界に生きる一人の人間としてキリスト教・世界に対して疑問に思うことを考察していきます。単に評論家的な批評をするのではなく、自分でできることを示せるような、自分の持ち場に立った言葉を紡いでいきたいです。

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