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脱原発ブーム?そんなのクソくらえだ!!

 6月25日に「節電ブーム」によって暴力性が招来する可能性を指摘した。

 誰に似たのだか「悪い予感」は当たる。

 節電をしないと、戦時中の「贅沢は敵だ」に似た風潮が醸成されていると聞く。

 はっきりそういう声が聴こえるというのではない。

 無言の圧力めいたものを感じるのだ。

 ある知人は昼間に冷房を使用している家庭を「非国民」の如く後ろ指を差す社会になっているのではないかと危惧を語っておられた。

 同じことが原子力発電所に対する態度にも当てはまるように思えてならない。

 何人かの有名人・芸能人が「脱原発」を表明しているのを先週までにいくつか見た。

 時代の風潮あるいは多数派という「安全地帯」ができてから、「実は私も脱原発なんです」と表明するところに私は辟易する。

 「脱原発宣言」をしないと、これまた非国民呼ばわりされそうな同調圧力を彼らは敏感に感じ取っているのかもしれない。

 彼らにとってはイメージが命であるからそれも当然なのかもしれない。

 しかし、もしそうならば、それを「主体的な決断」などと言うわけにはいかないし、「抵抗」と呼ぶわけにもいかない。

 「脱原発」を表明しても、誰からも石を投げられないとわかってから言うなぞ誰にでもできる。

 故・忌野清志郎さんは原発問題について生前から強いメッセージを発しておられた。

 それに引き換え、多くの著名人は、今回の福島を期に急に気がついてしまったのか、にわかに「脱原発」を訴えるようになった。

 そのうちの何人かは過去に、原発推進のCMに出てはいなかっただろうか。

 それへの反省なしになされる「脱原発」の表明に薄っぺらなものを感じる。

 3・11が起こる前から一貫して「反原発」を主張し続けてきた人たちに、私は敬意を払い、また自らの不明を恥じたいと思う。

 けれども、ある芸能人が言ったら「実は私も反原発なんです」と言いだす人に対しては有名無名を問わず、節操がないと言わざるを得ない。

 まずなすべきことは、過去の自分が「反原発」という考えになぜ傾かなかったのかを反省し、何が自分を盲目にしていたのかを点検することではないのか。

 節電や原発についての言説を散見する限り、全体主義的風潮が加速しているように思えてならない。

 「お前は原発賛成なのか反対なのか、どっちかにしろ」といういずれか一方しか選べず、中立的な立場を主張することがほとんど不可能な「空気」を感じる。

 この硬直性はとても危険である。

 今や「原発問題」は踏絵のようになり、根本的な部分が見えなくなりつつあり、その兆候に危ういものを感じる。

 しかし、この問題は軽々に反対だの賛成だの言えるものではない。

 一口に反対といっても、「即刻廃炉にすべし」という考えから、「すぐに代替エネルギーの開発は無理だ。徐々に原発から脱していくべきだろう」という考えまでいろいろな濃淡がある。

 それは賛成の立場にも言える。

 勘定に入れる要因が多すぎて、簡単にあれかこれかなぞを言える論件ではないのである。

 そのような当たり前のことすら忘却の彼方に追いやられているように思う。

 日本は元々、異色や異論を嫌う傾向があり、特にこういう「ブーム」の時にそれが強調されがちである。

 大正から昭和初期もおそらくこうだったのだろう。

 ということは、日本人はそんなに進歩も変化もしていないというある意味不快な事実を認めざるを得ないことになる。

 また、賛成派・反対派の両者に共通している言い回しがある。
 
「私の知っている専門家の意見」と言うものである。

 笑止である。

 子供の頃に自分を正当化するために「だって……が言ってた」「テレビで言ってた」がどんどんエスカレートして行き、最後は知っている限りの偉い人を持ち出して、自身の主張に権威の箔をつけた光景を想起する。

 その専門家の意見を鵜呑みにせず、自分で調べ、考えるというある意味当たり前のことがなされていない。

 にもかかわらず、態度表明をためらっている人を非難すると言うのか。

 これを笑止と言わずして何と言おう。

 更に、「反原発」「脱原発」だけでなく、最近は「減原発」という言葉まであると言う。

 もはやこれは言葉遊びである。真面目とはとても言えない。

 しかし、ここでは真になされねばならないことがなされていない。

 考えることであり、議論することである。

 原発の安全性や危険性についての議論は、十分どころかそもそも国民に開示されていない。

 しかも電力供給量もよく分からない。

 政府と電力会社は口をそろえて、「節電して下さい」とさえずるばかりで、肝心のことをオープンにしない。

 これに怒りを覚える。

 スロヴェニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクは、時に多数派の言っていることが理論的にも現実的にもどれほど正しかろうとも、議論の硬直性を掻き回すために、非難を受けてしまうような主張を敢えてするということを時に行う。

 それに倣えば、議論を掻き回すために「いや、原発大いに結構じゃないですか」と「非国民」的な発言をすることも必要だろう。

 強調するが、あくまでも議論の硬直性を緩和するための主張である。
 
 私自身は、「原発推進せよ」とは全く思っていない。

 ただ、現今の、考えるべきことが考えられておらず、「脱原発」「反原発」という言葉だけが飛び交い、それに異を唱える人を無言の圧力で、あるいは「非国民」という言葉で押し潰す風潮に強い危機感を覚え、それを掻き回す必要を強く感じるのである。

 今の日本の状況は、ジジェクが『暴力』で指摘していたことでもある。どの人も「にせの積極性」に身を委ねている。


こんにち、われわれにとって危険なのは、受け身の姿勢ではなく、にせの積極性である。つまり、「積極的」でありたい、「関与」したい、事態の無意味さを糊塗したいという衝動である。人々はなんでも首を突っ込む、「なにかをする」。学者は学者で無意味な論争に関与する……。本当にむずかしいのは、前のめりにならないこと、身を引くことである。(中略)なにもしないことが、ときにはもっとも暴力的な行為となるのである。(スラヴォイ・ジジェク(中山徹訳)『暴力――6つの斜めからの省察』青土社、2010(2008)、pp,263-264)


 そして、現今の状況において求められる態度について彼はこう言う。


われわれに求められるのは、前のめりにならないこと、つまり、このじかに目に飛び込んでくる「主観的」暴力、誰によってなされたかが明確にわかる暴力に目を奪われないことである。われわれに必要なのは、そうした暴力の噴出の背景、その概略をとらえることなのだ。(同書p,10)


 これに倣って言えば、原子力発電とはどういうものであり、私たちの生活はどれほどその技術に依存してきたのか、依存しているのか、どういう危険性があるのか、安全性をいかにして確保するのか、なぜ「安全神話」を鵜呑みにしてきたのか、問題の背景や概略を捉えること、なすべきことはそれである。

 「考えている時ではない。行動すべきだ」という主張は一種のイデオロギーになっている。

 しかし、それに抗して、「否、考えること、理論を構築することがなすべきことだ」と今こそ、勇気をもって言わねばならないのだ。
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EMI Takashi(ヒソカ)

Author:EMI Takashi(ヒソカ)
2005年に神経性疾患を発病し、体調記録をつけるためにブログを始めました。そして、読書能力の回復に伴って、本のレビューを書くようになったものの、最近は時間を作れず、やや休止中でございます。

 数年前、出版社で働くようになりました。仕事そのものが面白く、その都度自分で課題を見つけて解決するというプロセスが楽しい。
 このブログでは、「扉の開いた」言葉を求めつつ、この世界に生きる一人の人間としてキリスト教・世界に対して疑問に思うことを考察していきます。単に評論家的な批評をするのではなく、自分でできることを示せるような、自分の持ち場に立った言葉を紡いでいきたいです。

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