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真に科学的な知性とは?

 以前、池谷裕二さんの『単純な脳、複雑な「私」』(朝日出版社)を借りて読みました。

 人間の脳や知性の構造について考察するときには、どこかで「自分の脳の活動を自分の脳の活動が追い越す」というアクロバシーが必要になります。

 「私はこのように思う」という判断を下した瞬間に、「どうして、私はこのように思ったのか?この言明が真であるという根拠を私はどこに見いだしたのか?」という反省がむくむくと頭をもたげ、ただちに「というような自分の思考そのものに対する問いが有効であるということを予断してよろしいのか?」という「反省の適法性についての反省」がむくむくと頭をもたげ・・・(以下無限)

ということは「すごく頭のいい人」においては必ず生じるのですが、ここで「ああ、わかんなくなっちゃった」という牧伸二的判断保留に落ち込まず、「いや、これでいいんだ」と、この無限後退(池谷さんはこれを「リカージョン」(recursion)と呼んでいる)を不毛な繰り返しではなく、生産的なものと感知できる人がいます。

 真に科学的な知性とはそのような人のことです。

 どうして、リカージョンが生産的であるかというと、ご本人にとってそれが「気持ちいい」からです。

 最終的に思考の深化・過激化の運動を担保するのは、考えている人自身の「あ、こういうふうにぐいぐい考えていると、気持ちいい」という「気持ちの問題」なのです。

 けれども、どうして「気持ちいい」ということが「よいこと」であると当人は確信できるのでしょう。

池谷さんはこう書いています。


「人の役に立ったらうれしいし、自分も満足だしということで、だから科学はおもしろいんだ・・・そんなふうに普通の人は考えているかもしれない。
でも、科学の現場にいる人にとっては、そうじゃない。科学の醍醐味は、それだけに尽きるのじゃない。むしろ本当におもしろいのは、事実や真実を解明して知ることよりも、解明していくプロセスにある。
仮説を検証して新しい発見が生まれたら、その発見を、過去に蓄積された知識を通じて解釈して、そして、また新しい発見に挑む。高尚な推理小説を読み進めるようなワクワク感だ。難解なパズルのピースを少しずつ露礁させていくかのような、この謎解きの創出プロセスが一番おもしろい。」(池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』朝日出版社、2009、400頁)


 興味深い「喩え」です。

 池谷さんは本質的にリカーシヴなもの(つまり、絶対に「最終的解決」にたどりつかない)である科学の探求を「推理小説を読むワクワク感」と「難解なパズル」に喩えました。

 世界を「書物」に喩えるのも、「謎」に喩えるのも、どちらも共通するものがある。

 それは「書物を書いた人(推理小説の結末を知っている人)」「パズルを設計した人」が存在するということについての満腔の確信です。

 推理小説を読んでいるときに、「最後まで読んでも、結局犯人はわかりませんでした」という可能性があったら、私たちはそれを読み続ける意欲を維持できないでしょう。

 パズルを解くときに、「結局解けないこともある」という可能性があっても同じです。

 ある程度以上持続して知的活動を高止まりさせておくためには、「自分でこの難問が解ける」という確信ではなく、「〈誰か〉がすでに解いた」から「〈誰か〉がいずれ解いてくれる」ということについての確信が絶対に必要です。

 その確信さえあれば、推理小説を途中まで読んだところで、あるいはパズルを途中まで解いたところで、昼寝をしたり、ごはんを食べに行ったり、場合によっては息絶えてしまっても、「ああ、楽しかった」という感想はあっても、時間を無駄にしたという気になることがないのです。

 この〈誰か〉は、論理的には、「宇宙の設計者」以外にはいない。

 だから、真に科学的な知性は、その絶頂において、必ず宗教的になるのです。

 私たちは「私を超えるもの」を仮定することによってしか成長することができない。

 これは人間の基本です。

 子どもは「子どもには見えないものが見えている人、子どもには理解できない理路がわかっている人」を想定しない限り、子どものレベルから抜け出すことができない。

 人間のすべての知性はそういう構造になっています。

 「自分の知性では理解できないことを理解できている知性」(ラカンはそれを「知っていると想定された主体」sujet supposé savoir と呼んだ)を想定することなしに、人間の知性はその次元を繰り上げることができない。

 科学者とは「普通の人よりたくさんのことを知っている主体」のことではない(そう勘違いしている方が時折おられますが)。

 そうではなくて、「知っていると想定された主体」抜きには人間の知性は速度も強度も長くは維持できないという真理を経験的に知っている主体、すなわち「自分の〈生身性〉を痛感している主体」、「身体をもった主体」のことなのです。
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EMI Takashi(ヒソカ)

Author:EMI Takashi(ヒソカ)
2005年に神経性疾患を発病し、体調記録をつけるためにブログを始めました。そして、読書能力の回復に伴って、本のレビューを書くようになったものの、最近は時間を作れず、やや休止中でございます。

 数年前、出版社で働くようになりました。仕事そのものが面白く、その都度自分で課題を見つけて解決するというプロセスが楽しい。
 このブログでは、「扉の開いた」言葉を求めつつ、この世界に生きる一人の人間としてキリスト教・世界に対して疑問に思うことを考察していきます。単に評論家的な批評をするのではなく、自分でできることを示せるような、自分の持ち場に立った言葉を紡いでいきたいです。

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