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『真の文明は人を殺さず 田中正造の言葉に学ぶ明日の日本』

真の文明は人を殺さず真の文明は人を殺さず
(2011/09/09)
小松 裕

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 小松裕『真の文明は人を殺さず 田中正造の言葉に学ぶ明日の日本』小学館、2011

 時宜に適った本である。タイトルは、「真の文明は 山を荒さず 川を荒さず 村を破らず 人を殺さざるべし」という田中正造が1912年6月17日に記した言葉に由来する。約100年前のこの言葉は少しも古びずに今、この時に燦然と輝く。

 今頃になって田中正造の言葉に耳を傾けようということを、多くの人は笑うかもしれない。「田中正造の思想の何が生きていて、何が死んでいるのか」と人は問うかもしれない。しかし、このような疑問を抱けるのは、過去を裁かんとする傲慢な態度がそこにあるからである。むしろ、哲学者スラヴォイ・ジジェクに倣ってこう言うべきなのだ。真に偉大な思想家を前にして問われるべきは、この思想家が何をまだ教えてくれるのか、彼の思想にどのような意味があるかではなく、逆に、我々のいる現状がその思想家の目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか、なのである。

 これは本書の主人公である田中正造にもそのまま当てはまる。「田中正造の思想は今でも有効か?」というありきたりな質問ではなく、逆の問いを投げかけるべきなのだ――「地震と津波と原発事故というトリプルパンチがもたらした我々の置かれている苦境は、田中正造の眼差しからはどう見えるのか?」と。

 正造の生き方、鉱毒問題、政治思想、谷中学、自然との共生、公共思想という6つの章にわたって、著者は正造の眼差しと生き様を立体的に描き出す。そして、正造が生きた時代の日本と震災以後の日本を重ね合わせる。そこには、東北出身である著者の怒りと悲しみも時に重ねられる。正直、私は既視感を抱かざるを得なかった。あの足尾銅山鉱毒事件と水俣病においてもなされたことが、今回の原発事故でも繰り返されているのは暗澹たる思いである。政府と専門家は私利を追いかけ、そこで暮らしている人々には目もくれない。何も変わらなかったのか。否、愚かさと過ちがどれほど繰り返され、非命の死者がどれほど出ようとも、そのことに怒りと悲しみを覚え、虐げられた人々の側に立ち続け、戦い続けた男の証が消えたりはしないのだ。

 本書の出版はとても意義深い。しかし、いくつか引っかかりも覚えた。正造の行動原理や思想を紹介・敷衍する過程で、著者は「心がけの大切さ」を強調しがちである。例えば「安易に妥協はせず、原理原則にさらに忠実に生きようと心がけた」(p,34)とか「天地と共に生きることを心がけていた正造」(p,43)と記しておられる。しかし、それは正造の歩みを、個人の内面の問題に矮小化することになり、ひいては正造の思想にある社会的なパースペクティブを過小評価させることになりはしないだろうか。それは著者の本意ではあるまい。著者の論述を丁寧に読めば、「心がけ」の問題にして本書を閉じるということはないだろう。

 そもそも、「心がけ」以前に、正造には確かな思想があった。こう言うと奇妙に思われるかもしれない。社会運動家、それが田中正造の一般的なイメージだからだ。それは間違いではない。しかし、それは正造の一面でしかない。正造には思想家の面もある。それも生き様・生き方に血肉化するほどに鍛え上げられた思想である。それは机上の論理ではない。事実と実践を重視する「実学」である。正造が卓越しているのは、その思想や行動原理が身体化し、具体的な実践に結びついていることにある。思想か実践かの二者択一ではない。両者がどのように結び付いているかを読みとらねばならないのだ。

 それは、正造がどこに立ち続けたのかと密接に関係している。正造は近代化の犠牲になった人々の側に、弱く小さくされている人々の側に常に立とうとした。著者はその正造を、インドのマハトマ・ガンディーや韓国の咸錫憲(ハムソクホン)と重ねる。それだけでなく、イエス・キリストと重ねることも可能だろう。正造が政府の無責任で利己的なふるまいや「知」を独占すると称する専門家を厳しく非難する有様は、聖書の専門家でありながら人々を抑圧から解放しようとしなかった律法学者に対して苛烈な怒りを向けたイエス・キリストを彷彿とさせる。あるいは、「最弱を以て最強に当たる」という正造の思想は、新約聖書第二コリント12章9節の「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」を想起させないだろうか。正造は「キリストに従う者」である、そう言いたくなる思いを私は禁じ得ない。
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EMI Takashi(ヒソカ)

Author:EMI Takashi(ヒソカ)
2005年に神経性疾患を発病し、体調記録をつけるためにブログを始めました。そして、読書能力の回復に伴って、本のレビューを書くようになったものの、最近は時間を作れず、やや休止中でございます。

 数年前、出版社で働くようになりました。仕事そのものが面白く、その都度自分で課題を見つけて解決するというプロセスが楽しい。
 このブログでは、「扉の開いた」言葉を求めつつ、この世界に生きる一人の人間としてキリスト教・世界に対して疑問に思うことを考察していきます。単に評論家的な批評をするのではなく、自分でできることを示せるような、自分の持ち場に立った言葉を紡いでいきたいです。

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