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『始まりの言葉』

始まりの言葉 (双書時代のカルテ)始まりの言葉 (双書時代のカルテ)
(2007/09/07)
古井 由吉

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 古井由吉『始まりの言葉』岩波書店、2007

 著者の本を読むのは二冊目である。まだ小説は読んだことがない。本書は、「双書 時代のカルテ」の一冊で、「二十世紀の岬を回り」「「時」の沈黙」「言葉の薄氷を踏んで」の三つの文章が収録された、薄い本である。

 これは、二十世紀という時代の見えない真相を撃とうとする、文体の運動であり、言葉の運動である。一直線に結論に行く方ではないようだ。いや、『人生の色気』でも言うように、「言葉に仕える」ことをしてきた著者だからこそ、「結論が見えている」「わかっている」という立場では言葉を紡がないのだ。そこに、言葉を紡ぐ者の節度を見る。

 二十世紀のある時点から何かが変わった。著者は、その節目の出来事を画定しよう、見定めようとするものの、そのような出来事はない。複数の世界史的出来事を指摘できるし、大小様々な要因も指摘できるけれども、「これは」という出来事が見えない。「見えない」ということに著者は焦燥も不安も抱かない。一歩一歩ゆっくりと探究する。

 言葉には、一度気になりだすと無限に様々なことが気になる薄氷がある。言葉は確固たるものではないのではないか。あやふやなものを含んでいるのではないか。近代知性はそれを見ないようにしている。あるいは、理解できないということに踏みとどまれない。

 何事をも理解しなくてはすまぬ近代知性の悲劇は、物事を得心する「ことわり」を一掃してしまったことだ。しかし、それを単に嘆くだけでは、近代への忘恩であると著者は鋭く指摘する。

 また、少年たちが言葉の破片のようなものをむやみにまき散らすことに、言葉の意味の解体する瀬戸際まで表現を追い込む西洋の現代詩人の試みを重ねる。それは、我々の日常から遠い話ではない。日々コンピュータを使って作業をしているけれども、これらの技術の由来を原理まで遡って、言葉によって説明あるいは得心することは、非専門家や門外漢には不可能である。それが今の社会である。

 理屈の上ではつじつまの合った話を今の世の中ではよく聞く。しかし、「腑に落ちない」という思いがそれに伴っている。理と言葉の分離を得心あるものにする「ことわり」が欠けている。もっとも、この本はその「ことわり」を与えてくれるわけではない。むしろ様々な語り方で、言葉を語るという営みが薄氷を踏む営みであることを、一歩踏み出した先に確かなものなぞないということを思い出させてくれる、そんな本であるように思った。
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EMI Takashi(ヒソカ)

Author:EMI Takashi(ヒソカ)
 2005年に神経性疾患を発病し、体調記録をつけるためにブログを始めました。そして、読書能力の回復に伴って、本のレビューを書くようになったものの、最近は時間を作れず、やや休止中でございます。

 2017年3月末に5年勤めた出版社を辞め、4月から同じ宗教法人の他部局で働くようになりました。仕事そのものは、相変わらず楽しい。

 このブログでは、「扉の開いた」言葉を求めつつ、この世界に生きる一人の人間として疑問に思うことを考察していきます。

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