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テゼの集い at 東京聖十字教会

 私の家の近所にある教会を会場にして行われた「テゼの集い」に、昨日、行ってきました。

 来日しているブラザー・ギランを迎えての集いです。これまで岩手・仙台・静岡で行われました。


日 時: 2011年11月19日(土) 午後2時から午後6時まで
会 場: 東京聖十字教会(世田谷区若林4-18-8)
テーマ: 「裸足の宣教 ―― 簡素さ・リスクを負う・敬意をはらう ――」
主 催: 日本聖公会東京教区・信仰と生活委員会


 簡素さ・敬意をはらう・リスクを負うという順番で、ブラザー・ギラン(通訳:植松功氏)が話をされました。
 合間に礼拝堂での祈りと讃美の時、分かち合いの時、質疑応答の時間がありました。
 ブラザー・ギランの語ったことで強く印象に残ったこととそれを聴いて感じたことを記したいと思います。


「簡素さ」
 福音書でイエスが語っているのは、単純素朴さ、心の単純素朴さ、生活の単純素朴さに向かう人は幸いだということだ。それは、この瞬間を生きようとする単純素朴さ、毎日毎日を新たな「神の日」として迎える単純素朴さである。
 単純さには美と喜びがある。「単純にしよう」としても、そこにイライラしたものがあれば、それは違う。
 またそれは、目指すべき目標ではない。生きていることそれ自体だ。
 単純素朴さとは、こどもの心、つまり物事を透明にはっきり見る心のことだ。明快に見ようとすることだ。
 物事を単純化させることとは全く異なる。「こどもっぽい」ことでもない。物事の肯定的な部分、否定的な部分、物事の様々な状況をしっかりと見定めることだ。
 こどもの心は教会の強張った組織に押し潰されることもない。


 私の所属している教会に最も欠けているものは、簡素さと沈黙だと私は感じています。礼拝自体に簡素さ・単純さがなく、初めて教会に来た人はやることの多さに戸惑いを感じます(戸惑っている光景を時々見ます)。聖歌隊が歌う讃美歌も、歌の訓練を受けていなければ歌えないような、むずかしさを求める傾向が時にあります。それらの全てが間違っているとか正しいとか言いたいのではありません。しかし、私はそれらに徐々に疲れを覚えるようになりました(疲れを覚えるのはこれらだけが理由ではありませんが)。

 息苦しさを感じ、酸素を求めている、そんな錯覚にとらわれることもあります。「もっと単純でいいのではないか。シンプルに神を礼拝し、祈り、讃美するだけでよいのではないか」、そういう思いがあります。

 日曜の午後も何かしら集会があって慌ただしい。必要な集会もあるでしょう。しかし、活動、活動ばかりで沈黙することがなければ、人はいずれ空っぽになり、燃え尽きてしまいます。

 数年前に興味を抱いて聞くようになり、また自分でも練習するようになったスペインの作曲家にフェデリコ・モンポウという人がいます。

 彼の「沈黙の音楽」は、不必要な音を徹底的にそぎ落とした果ての、本当に必要な音だけで構成された作品です。全曲を弾いても1時間ぐらいにしかなりません。構造はとても単純です。しかし、その単純さを適切に出すことができたら、とても美しい音楽が現れます。

 また、オルガン練習に行くと、バッハのコラール「Erbarm dich mein, o Herre Gott(憐れみたまえ、おお主なる神よ) BWV721」を必ず弾きます。

 初めから最後まで和音が続き、その上をメロディが乗っかっている構造をしています。この単純な構造の曲をゆっくり弾いているのが、私にとっては祈りを捧げているように感じるのです。

 むずかしい曲ではないし、装飾がたくさんあるわけでもない。人によっては飽きてしまうかもしれません。しかし、これを聴いていると、また弾いていると深い安堵を覚えるのです。それだけ私が簡素さを求めている証拠と言えるでしょう。

 ブラザー・ギランの話を聴きながら、私自身が単純素朴さをずっと求めてきてことを思い出し、「この方向でいいのだな」という一つの示唆をいただいたように感じました。

 もちろん、ブラザー・ギランも指摘していたことですが、「単純素朴に生きよう」というのは、現代社会の前提に鋭く異を唱えることです。この生活をすることそれ自体が抵抗なのです。

 しかし、私には複雑で、活動的で、装飾過多で、沈黙のない生活はできません。言葉を発するためには沈黙の時間を必要とします。静まって祈るひと時を必要とします。活動するために休養することを必要とします。そして、なるべくシンプルに考え、行動したい。

 ブラザー・ギランは、単純さには喜びと美があると言っていました。おそらくその生活のためには、立ち止まることを恐れない勇気が必要なのかもしれない、と思いました。


「敬意をはらう」
 福音宣教とは小さな声でささやくことだ(インドのグワティにおられるトマス・メナムパラムオイル大司教の言葉に基づく)。
 「宣言」とは、スローガンや宣言文を掲げることではない。心の中でささやき続けることであり、福音がその通りであると生きることだ。
 何よりも大切なのは、福音を伝えようとしている相手の言葉に耳を傾けること。相手に敬意を抱いて、相手の言葉に耳を傾けること、傾聴こそが大事である。
 フランスのテゼに世界中から若者が来る。その話を聴くたびに痛みを覚える。みんな、傷ついている。家庭で、職場で、学校で。彼らに向かって、私たちは何の言葉もかけることができない。しかし、彼らの言葉に耳を傾け続けることが癒やしになる。
 教会の高齢者は大きな役割を担っているように思う。じっと耳を傾けるという大きな役割だ。


 語るよりも先に耳を傾けることの大切さ。これは私が何より求め、また私自身がそうしたいと願っていることです。

 また、預言者エリヤが地震や火や嵐の中に神を探したが見つからず、それらが過ぎ去った後の静かなる細き声に神を見出したという旧約聖書列王記上19:11-13の故事を思い出しました。

 威丈高で騒がしい声や自分を誇ろうとする声の飛び交っているところでは、神様の声が聞こえないだけでなく、他者の声も聞こえません。

 私は、大きな声とか騒ぎ立てる声の人が苦手です。心がざわつきます。

 しかし、そんな大声が必要なのでしょうか。

 大声を出す人、圭角のある言葉を発する人、きつい言い回しをする人とは、私にとって敬意を抱きにくい人々でもあります。

 「主よ、お語りください。僕は聞いております」と静まって、神様の声を聞こうとしたサムエルのような傾聴こそが大切だと強く思います。また、そうでなければ、ささやき声のような声を聴くことはできないでしょう。

 活動的で騒がしい教会であるゆえに、窮屈さを感じている人が何人かいるのを知っています。私はその人の言葉を聴きたい。その人の言葉を大切にしたい。私が何か判断を下すのではなく、ただ聴くこと、聴き続けること、それが求められているのではないかとブラザー・ギランの話を聴きながら感じたことでした。


「リスクを負う」
 リスクを負うとは、神様が見るように自分を見るという冒険である。
 自分が全く無力な時、何の道も開けないと思う時、神様が想像力、物事をイメージする力を与えてくれるのだという確信を抱くこと。
 リスクを負うとは、勇気を出して待つことである。受身ではなく、燃える心で忍耐して待つことである。
 ブラザー・ロジェの生き方は忍耐の日々だったが、同時にリスクを負って何かを決断する日々でもあった。
 静けさの中で、沈黙の中で私たちは御言葉を待つというリスクを負う。
 第二ペトロ1:19「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」とあるように、与えられた御言葉にしがみつく。
 誰かを赦してもそれが報われない時、どのようにしたらそのような冒険をし続けることができるか?「どんな落胆、どんな過ちがあっても、あえて前に進み続けるのです。理想的な心とか自分にはない心で進むのではありません。今のこのわたしの心で、あえて進むのです。神さまがその心を変容させてくださいます。」(ブラザー・ロジェ)


 この「リスクを負う」の紙には、こんな質問が書いてあります。「わたしにとって、リスクを負う、あえて冒険の道を歩むとはどういうことだろうか。個人の生活の中で、社会で、そして教会で」と。

 私はどんな冒険に召されているのでしょうか。何もできないかもしれないけれど、教会にいることが、主に従うことなのかもしれません。

 今の時代、「待つこと」「立ち止まる」ことは、「非効率」の名の下、否定的な評価を下され、排除されがちです。

 しかし、簡素な生活をするためには、「慌ただしく複雑な生活は本当に私に必要なのだろうか?」と勇気を出して立ち止まって考えることが必要です。

 また、敬意を抱いて他者に接し、その言葉に耳を傾けるためには、立ち止まることが必要です。
 

 テゼの集いは、現代社会で起きていることに目や耳を塞ぎ、自分たちの生活に閉じこもる、そんな偏狭さや閉鎖性とは無縁です。むしろ、現代社会で起きていること、特に若者や青年の抱えている痛み・傷・悩み・苦しみにずっと耳を傾けてきました。立ち止まり、無力感にうちひしがれるしかないような、そんな現実をテゼのブラザーたちは知っています。

 赦しと和解のある世界にどうしたらなるのか、その問いが具体的な生活の場で日々問われているのです。

 人が人間らしく生きるのには、そんなに多くのことは必要ではないし、複雑である必要もないでしょう。

 そこには力みがなく、簡素さがあり、喜びと美しさがあるはずです。

 簡素さ、沈黙、喜び、美しさ、祈り。とても安堵できる時間を過ごすことができました。
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プロフィール

EMI Takashi(ヒソカ)

Author:EMI Takashi(ヒソカ)
2005年に神経性疾患を発病し、体調記録をつけるためにブログを始めました。そして、読書能力の回復に伴って、本のレビューを書くようになったものの、最近は時間を作れず、やや休止中でございます。

 数年前、出版社で働くようになりました。仕事そのものが面白く、その都度自分で課題を見つけて解決するというプロセスが楽しい。
 このブログでは、「扉の開いた」言葉を求めつつ、この世界に生きる一人の人間としてキリスト教・世界に対して疑問に思うことを考察していきます。単に評論家的な批評をするのではなく、自分でできることを示せるような、自分の持ち場に立った言葉を紡いでいきたいです。

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