Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://takashidokoka.blog118.fc2.com/tb.php/1484-e96ca0e8

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

『旧約聖書と新約聖書――「聖書」とはなにか』

旧約聖書と新約聖書 (シリーズ神学への船出)旧約聖書と新約聖書 (シリーズ神学への船出)
(2011/11/25)
上村 静

商品詳細を見る


 上村静『旧約聖書と新約聖書――「聖書」とはなにか』新教出版社、2011

 「聖なる書物」という意味の「聖書」は、複数の文書を集成した書物群である。今日の数え方では一般的に、「旧約聖書」は46(カトリック)ないし39(プロテスタント)、「新約聖書」は27の書物から構成されている。けれども、古代ユダヤ人や初期キリスト教徒が著した文書はもっと多かった。それなのに、多くの書物群の中から、一部の書物だけが「聖なる書物」とされたのは、そこに政治的な力が働いたためだ。「ある特定の書物を「聖なる書物」と定めたのはあるグループに属する人間である。そこには、ある特定の書物に「神」の権威を与えることで、自分たちを正当化しようという動機が働いている」と著者は指摘する。

 そのようにある書物(群)が一度「聖書」とされると、「聖書」は「神の言葉」であるから絶対だとする絶対化が起こる。そして「聖書」の教えに反するとされた者は断罪・抹殺される。キリスト教の負の歴史はまさにそうした事柄の集積である。そうした考え自体は根本的には今も消えていない。例えば、ノンクリスチャンを「救われていない人」と蔑視するクリスチャンは今でもいる。

 それは「聖書」の権威を傘に、自らを絶対化・正当化する暴力である。「人間による人間支配」を「神」の名の下に正当化する道具として「聖書」は用いられてきた。そんな「聖書」に基づく暴力性を著者は厳しく批判する。こうした暴力は、聖書が「聖書」とされた時から今にいたるまで延々と繰り返されている。「聖書」には、その権威を傘に自他を抑圧しようとする人間の暴力が内包されているのだ。

 そうしたことを踏まえつつ、「旧約聖書」と「新約聖書」について、その成立経緯と相互関係について解説することが本書の目的の一つである。但し、本書は聖書を「聖なる書物」としてではなく、古代ユダヤ人及び初期キリスト教徒の生みだしたあれこれの文書として扱う。それは、聖書の著者たちが、それぞれ自分の生きている時代の制約の中で、人間と世界を観察し、人間と世界のあるべき姿を展望したからである。また、彼らが「神」という言葉を用いることを通して、人間を含めた<いのち>というもののあり方に神秘を認めて、人間存在がどうあるべきかを語っているからである。そこに現代においてなお聖書が読まれる意義があると著者は指摘する。我々は、人間存在とは何か、人はどのように生きるべきか、そういった事柄を、聖書を通して学ぶことができる。人間のありようを観察し洞察し、また人間の愚かさをも強く認識していた古代人の著した文書群から教えられることは大いにある。

 よって、本書の意図は、ユダヤ教とヘブライ語聖書の成立、その後の時代のユダヤ教の展開とその中から生まれてくる「キリスト派」がやがてキリスト教となって新約聖書を生みだすという、その全体像を一冊で概観することにある。いわばユダヤ思想史である。 

 そして、この思想史の叙述においては、特に「義なる神」という表象にまつわる諸問題に著者は注目する。というのも、これこそが「聖書」の暴力を生みだす源であると著者は考えるからだ。

 また、類書と異なり、本書は「キリスト教信仰」を前提としていない。そうかといって、「中立」を謳いもしない。著者はキリスト教に対してはっきりと批判的な立場を取る。というのも、「聖書」には暴力性がまとわりついていて、その暴力を過去も現在も行使しているのがキリスト教だからである。「批判」とは「吟味・検証」という意味である。そして、著者が聖書各文書を概観した先に目指しているのは、「聖書」の暴力性の根源を明らかにして、「聖書」をその暴力から解放することである。

 著者は学問的に裏付けられた説得的な議論を展開する。しかし、自分の議論も仮説にすぎないと相対化する。唯一絶対の正しい解釈などありはしない。「これこそ正しい解釈」とする、その所作そのものが暴力的だ。その反対に著者は、自分なりの解釈を試みてほしいと読者を促す。それは自己絶対化・正当化のためではなく、あらゆる解釈を相対化するためである。それが「聖書」の暴力を無力化し、そこから学ぶ唯一の方法だと著者は言う。そして、それは絶えず行われる必要がある。

 本書は聖書とキリスト教に関心のある全ての人に勧めたい。特に、クリスチャンの言動に傷つき落胆してきた人にこそ勧めたい。「聖書」の権威に基づく暴力をふるうクリスチャンがなぜ生まれるのか、その理由の一端を本書は教えてくれる。また、「神の言葉なのだから正しく聖書を読まねば」という呪縛からも解放してくれる本である。

 著者が「中立」を標榜せず、自らの立場の偏りを鋭く自覚しているからこそ、また自身の議論を相対化するからこそ、本書の議論を繰り返し噛み締めたいと私は思うのかもしれない。
関連記事
スポンサーサイト
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://takashidokoka.blog118.fc2.com/tb.php/1484-e96ca0e8

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

プロフィール

EMI Takashi(ヒソカ)

Author:EMI Takashi(ヒソカ)
2005年に神経性疾患を発病し、体調記録をつけるためにブログを始めました。そして、読書能力の回復に伴って、本のレビューを書くようになったものの、最近は時間を作れず、やや休止中でございます。

 数年前、出版社で働くようになりました。仕事そのものが面白く、その都度自分で課題を見つけて解決するというプロセスが楽しい。
 このブログでは、「扉の開いた」言葉を求めつつ、この世界に生きる一人の人間としてキリスト教・世界に対して疑問に思うことを考察していきます。単に評論家的な批評をするのではなく、自分でできることを示せるような、自分の持ち場に立った言葉を紡いでいきたいです。

最新トラックバック

月別アーカイブ

カレンダー

09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。