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[C57] 祈りの声

キリストを讃えることは、なかなかできないものですね。横柄な態度が鼻につくクリスチャンが多いのは、日本での「身分」の感覚、未だに残っている江戸時代的な(といったら江戸の人たちに怒られちゃいますか)風土もあるんでしょうね。「へりくだり」は、他者に対して求めうるような甘っちょろいものではないと、私は思っています。「腰が低いですね。」と褒められて、「そうでしょ~」って返答したら、もう腰低くなくなっちゃいませんか。

クリスマスを扱った小塩節さんの本に、『光の祝祭 ヨーロッパのクリスマス』(日本基督教団出版局、1996年)という(小林恵さんによる)写真の豊富なすばらしい本があります。今回の記事を読みながら思い出したので、(僭越ながら)その中にあった詩を引用したいと思いました。アルブレヒト・ゲースという、1908年生まれ、シュトゥットガルトで牧師、詩人、作家、として生きた人だそうです。

「祈りの声」

わたしたちはあなたを探しません/わたしたちにはあなたが見つかりません/あなたが探し わたしたちを見つけるのです/永遠の光よ

わたしたちはあなたを愛すること少なく/あなたに仕えることがつたないのですが/あなたはわたしたちを愛し 仕えるてくださる/永遠の僕(しもべ)よ

おのれにかまけて わたしたちは/身動きもせず/あなたがわたしたちを求めてくださるばかり/永遠の言(ことば)よ

幼児(おさなご)よ 飼葉おけのあなたをしかと/抱きもかなわぬ わたしたちです/ただこのよい知らせはほんとうなのだと/言うだけで精いっぱいでございます
  • 2012-01-08 00:17
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[C58] Re:祈りの声

コメントありがとうございます。

 私が言いたかったことの一つは、一つの解釈にすぎないものを固定的に捉えてしまい、己の読み方を相対化できないままに他者に押しつける、クリスチャンの無自覚な暴力性です。ただ、「日本での「身分」の感覚が未だに残っているから横柄な態度が鼻につくクリスチャンが多い」というのもあるでしょう。

 「へりくだり」が甘っちょろいものではないというのは同感です。「へりくだり」がとても大事な目的であるかのように、自分にも他人にも言うクリスチャンが多くて、閉口しています。そんなに簡単なことではない。

 アルブレヒト・ゲースは『不安の夜』という小説のみ読んだことがあります。ドイツの牧師・作家ですね。初めて見ましたが、「祈りの声」はいい詩です。

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他人から「へりくだれ」なんて言われる筋合いはない

 新約聖書フィリピの信徒への手紙2章6-8節に「キリスト讃歌」と言われるものがあります。


(新共同訳)「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」


 ここは神のへりくだりを歌いあげたものと解釈されてきたし、今でも多くの人はこの解釈を鵜呑みにしているでしょう。

 「キリストは、神の身分でありながら」とはじまり、「僕の身分になり」と続き、「 へりくだって」とくれば、どうしても神は上から下に下りてきたというイメージを抱いてしまいます。

 本田哲郎神父によれば、原語モルフェーの訳に「身分」という言葉を選んだこと自体、既に神と人間を上下関係で捉えることが前提されていたことになります(本田哲郎『聖書を発見する』岩波書店、2010、p,57)。

 聖書を訳す前に、一つの考えが前提されていたということです。

 しかし、モルフェーは、「単純に姿、かたち、生き方、在り方を意味する語」であり、「身分」と訳したのは既存の神学に引きずられたからだと本田神父は述べています。

 「天」とはどこか特定の場所を指すのではなく、神のおられるところを「天」(シャマイム)という。

 しかし、上から下に神が下りてきたという下降イメージを前提している方々は、それを逆転させて、神は天におられるとし、私たちから遠いところにまつりあげてしまった、そのように本田神父は指摘しています。

 神様を人間の手の届かないところに祭り上げておきたい方々からすれば受け入れ難いでしょうが、神様の仕事場は「低み」であり、「塵」とか「芥」の吹き溜まるような「低み」です。言い換えれば、人間社会のドン底であり、周縁です(同書、p,56)。

 そう理解する本田神父は同じ箇所をこう翻訳しています。

 「キリスト・イエスは、神としての在り方がありながら、神と同じ在り方にこだわろうとはせず、自分を空け渡して奉仕人の生き方を取られた。イエスは見たところ他の人たちと同じであった。すなわち、姿はひとりの人にすぎないイエスが、自分を低みに置き、神の従属者として立たれた。それも死を、十字架の死を引き受けるまでに。」(本田哲郎訳『パウロの「獄中書簡」』新世社、2004、pp,21-22)

 おそらく、この解釈を好まれず、従来の下降イメージの訳を好む人もいるでしょう。

 「これは、本田神父の解釈ではないか。神様はこんな方ではない」と批判される方もおられるでしょう。

 そうです。これは本田神父の解釈です。しかし、それは先に引用した新共同訳についても同種のことが言えます。

 日本語で読めるどの聖書も原典ではありません(日本語訳聖書に限りませんが)。解釈です。

 「翻訳は解釈である」という当たり前のことからすれば、本田哲郎訳も新共同訳も同格です。

 確かに、翻訳者たちは、原典を「神の言葉」と前提して、翻訳しているでしょう。

 しかし、翻訳は人間の業であり、人間の言葉です。

 もっとも、私はそれを否定的なニュアンスで述べているのではありません。

 むしろ当たり前のことを確認する意図で述べています。

 「聖書は人間の言葉に過ぎない。「神の言葉」とみなすのは神学である」という考えは、人によっては、とてつもなく「不信仰な」物言いに聞こえるかもしれません。

 私はそれを甘受します。「不信仰」というそしりを私は恐れません。

 翻訳・解釈に過ぎないものを、「神の言葉」として掲げ、その暴力性に無自覚にふるまうのが「信仰深い」と称揚されるのであれば、私は「不信仰」のレッテルを恐れず引き受けましょう。

 ちなみに、私は本田哲郎神父の翻訳の方がストンと腹に落ちるので好きです。

 前置きが長くなりました。

 「キリスト讃歌」の従来の訳にご満足され、「キリストは私たちのためにへりくだってくださったのだ」と考えたいのであれば、それはその人の自由です。

 しかし、それを他人に倫理的にふるまうように用いるのは、迷惑極まりない。

 私はこんなことを言われたことがあります。

 「フィリピ書にあるように、キリストは私たちのところに下りてくるほどにへりくだってくださった。だから、クリスチャンのあなたも(キリストに倣って)もっとへりくだりなさい」と。

 大きなお世話です。

 「聖書にはこう書いてある。だから、クリスチャンのあなたももっとクリスチャンらしくなりなさい」と言うのは端的に暴力です。

 おそらく言う人は「善意」なのでしょう。

 しかし、聖書という権威を借りて、善意で何かを言ったりしたりするとき、クリスチャンはとても暴力的になります。

 困ったことに、その暴力性に気づける人はとても少ない。

 この種のクリスチャンの暴力に遭遇したことのある人は、クリスチャンかどうかを問わず、かなりいるように思います。

 「他人に倫理的になれ」という言葉ほど非倫理的な物言いはない。

 「他人に謙虚になれよ」という言い方ほど、謙虚から程遠い言葉はない。

 そして、「聖書にこう書いてあるから、あなたもへりくだりなさい」という物言いほど、「福音」から遠い言葉はない。

 聖書を読んだ本人が、「私はもっとへりくだらなければいけない」と考えるのは自由です。全く理解できませんが。

 しかし、それを聖書の権威を傘にきて他人に言うのは暴力です。
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[C57] 祈りの声

キリストを讃えることは、なかなかできないものですね。横柄な態度が鼻につくクリスチャンが多いのは、日本での「身分」の感覚、未だに残っている江戸時代的な(といったら江戸の人たちに怒られちゃいますか)風土もあるんでしょうね。「へりくだり」は、他者に対して求めうるような甘っちょろいものではないと、私は思っています。「腰が低いですね。」と褒められて、「そうでしょ~」って返答したら、もう腰低くなくなっちゃいませんか。

クリスマスを扱った小塩節さんの本に、『光の祝祭 ヨーロッパのクリスマス』(日本基督教団出版局、1996年)という(小林恵さんによる)写真の豊富なすばらしい本があります。今回の記事を読みながら思い出したので、(僭越ながら)その中にあった詩を引用したいと思いました。アルブレヒト・ゲースという、1908年生まれ、シュトゥットガルトで牧師、詩人、作家、として生きた人だそうです。

「祈りの声」

わたしたちはあなたを探しません/わたしたちにはあなたが見つかりません/あなたが探し わたしたちを見つけるのです/永遠の光よ

わたしたちはあなたを愛すること少なく/あなたに仕えることがつたないのですが/あなたはわたしたちを愛し 仕えるてくださる/永遠の僕(しもべ)よ

おのれにかまけて わたしたちは/身動きもせず/あなたがわたしたちを求めてくださるばかり/永遠の言(ことば)よ

幼児(おさなご)よ 飼葉おけのあなたをしかと/抱きもかなわぬ わたしたちです/ただこのよい知らせはほんとうなのだと/言うだけで精いっぱいでございます
  • 2012-01-08 00:17
  • Yj
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[C58] Re:祈りの声

コメントありがとうございます。

 私が言いたかったことの一つは、一つの解釈にすぎないものを固定的に捉えてしまい、己の読み方を相対化できないままに他者に押しつける、クリスチャンの無自覚な暴力性です。ただ、「日本での「身分」の感覚が未だに残っているから横柄な態度が鼻につくクリスチャンが多い」というのもあるでしょう。

 「へりくだり」が甘っちょろいものではないというのは同感です。「へりくだり」がとても大事な目的であるかのように、自分にも他人にも言うクリスチャンが多くて、閉口しています。そんなに簡単なことではない。

 アルブレヒト・ゲースは『不安の夜』という小説のみ読んだことがあります。ドイツの牧師・作家ですね。初めて見ましたが、「祈りの声」はいい詩です。

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EMI Takashi(ヒソカ)

Author:EMI Takashi(ヒソカ)
2005年に神経性疾患を発病し、体調記録をつけるためにブログを始めました。そして、読書能力の回復に伴って、本のレビューを書くようになったものの、最近は時間を作れず、やや休止中でございます。

 数年前、出版社で働くようになりました。仕事そのものが面白く、その都度自分で課題を見つけて解決するというプロセスが楽しい。
 このブログでは、「扉の開いた」言葉を求めつつ、この世界に生きる一人の人間としてキリスト教・世界に対して疑問に思うことを考察していきます。単に評論家的な批評をするのではなく、自分でできることを示せるような、自分の持ち場に立った言葉を紡いでいきたいです。

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