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『悼む人』

悼む人悼む人
(2008/11/27)
天童 荒太

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 天童荒太『悼む人』文藝春秋、2008

 見ず知らずの、自分とは縁もゆかりもない、事件や事故で亡くなった「無名の人」を悼む、それを「悼む人」は行う。宗教的な行ではない。死者の遺族・関係者から金品をもらうのでもない。何らかの趣味・嗜好でもない。崇高な理想があるわけでもない。どんな理由があって、主人公・静人は悼みを行うようになったのか。

 彼と出会った多くの人もそれを知りたいと考える。彼に初めて会った多くの人は戸惑う。「何の目的でそうするのか?」と問う。しかし、「悼む人」坂築静人は、「目的はない」と答える。ある人への返事では、自分のエゴでしかないと淡々と言う。

 「悼む」とは、死者の「冥福を祈る」ことではない。「悼む」ことを静人はこう理解している。人を愛し、人から愛され、また感謝されたかけがえのない人が確かにこの地上に生きたことを覚え、心に刻むこと、と。遺族や友人でもない自分が死者の「冥福を祈る」のは、不遜なような気がするとも言うように、彼は冥福を祈らない。
 
 彼に悼まれた「死者」は、「悼む人」をこう言い表す。「《彼は、人を悼んでいる……生きていた者が死んだとたん、数にされ、霊にされ……近しい者以外、どんな人物が生きていたかを忘れていくのに……この男は、死んだ者の生きていた時間に、新たな価値を与える。その人物が、この世に存在していたことを、ささやかに讃える》」と。「ささやかに」というところが重要だ。静人のふるまいには誇張や大げさなところが全くない。傍目にはほとんど無意味な行為にも見える。作中ではそういう声もあり、静人を偽善者と言う人もいる。しかし、静人自身は共感や支持を求めてはいないので、意に介さない。

 「悼む人」は分け隔てなく死者を悼む。殺人の加害者も悼むのか。理不尽な死を死んだ人や遺族と無念や怒りを共有しようとしないのはなぜなのか。なぜ死者が誰を愛し、また誰から愛され、感謝されたかの三つだけを覚えることにしたのか。更に、多くの人は彼をどう捉えているのか。その答えは本書にある。私は別のことを記したい。

 週刊誌記者の蒔野から、静人はなぜ「悼む人」という今の生き方を選んだのかと静人の母・巡子は尋ねられる。それに対して、巡子は「あなたは、なぜ、いまの生き方をなさってるんですか」と問い返す。そして、「肝心なのは、あなたに静人はどう映りましたか、ということではないでしょうか。(中略)或る人物の行動をあれこれ評価するより……その人との出会いで、わたしは何を得たか、何が残ったのか、ということが大切だろうと思うんです」と重ねて言う。静人の旅程を追ってみて、私には何が残ったのか。

 今の時代は何でも数値で語られがちだ。例えば、年間の自殺者3万人とはいうものの、誰がどんな事情でその選択をしたのか、どんな人と関わって生きてきたのかはほとんどわからない。しかし、そこには数には還元できない、誰かを愛し、誰かから愛され、感謝された一人のかけがえのない人がいる。社会的に「有名な人」ではないかもしれない。けれども、特別な人がいる。その人たちが確かにこの地上に生きたことを、その亡くなった場所を訪ね歩いて悼む人がいる。これは迂遠な営みで、何の利益も得もない営みであり、悼む人自身にも辛さや苦しさをもたらす。「それが何の役に立つの」という問いが聞こえてくる。しかし、この営みは有用性という考えを超越している。静人にとって辛さや苦しさをもたらすこの営みが有用であるはずがない。けれども、この営みには希望がある。死者が誰かを愛し、誰かに愛され感謝されたことを確かに心に刻む人がいるなら、暴力と悲痛にあふれるこの世界も、人が数として物として使い捨てにされるこの世界にも希望があると信じられる。私はそんなことを思った。

 本書は2008年に出版されたが、この物語の萌芽となる考えがつづられるようになったのは2001年秋だったという。その7年間「悼む人」と向き合ってきたと、巻末の「謝辞」で著者は述べている。おそらくそれだけの時間がどうしても必要だったのだ。7年という、著者が偶然性に身を曝し続ける時間、当て処のなさに耐える時間が、この物語が生まれるのには必要だったのだ。7年で終わるかどうかもわからなかったろう。そのような時間を経てできた物語であるというのは、物語において静人自身がどこに行きつくのか定かでないということとどこかで通底しているように思う。
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EMI Takashi(ヒソカ)

Author:EMI Takashi(ヒソカ)
2005年に神経性疾患を発病し、体調記録をつけるためにブログを始めました。そして、読書能力の回復に伴って、本のレビューを書くようになったものの、最近は時間を作れず、やや休止中でございます。

 数年前、出版社で働くようになりました。仕事そのものが面白く、その都度自分で課題を見つけて解決するというプロセスが楽しい。
 このブログでは、「扉の開いた」言葉を求めつつ、この世界に生きる一人の人間としてキリスト教・世界に対して疑問に思うことを考察していきます。単に評論家的な批評をするのではなく、自分でできることを示せるような、自分の持ち場に立った言葉を紡いでいきたいです。

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