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[C62] 年齢

初めてコメントさせて頂きます。
とても素晴らしいblogを書いてらっしゃいますね。
私も11月で誕生日を迎えますが、年をとった時に尊敬される老人になりたいと思っております。

人間としてこの世に産まれてきたのなら、常に勉強をし、自分の引き出しを増やす事を怠ってはいけないと親に教わりました。
正しさとは何だろうと、思うことが最近よくあります。年上だから正しくあるべき、気配りを人一倍して模範になるように、と。しかし、正しさとはその人間の育った環境、触れた事柄で大きく左右されるものだと思っています。謙虚にいるのが一番かもしれませんね(>_<)

普段の生活でこんな話を出来る人は最近いなかったのでこの記事をみて思わずコメントさせて頂きました。いきまり失礼しました(*´∇`*)
  • 2012-11-02 01:00
  • sami
  • URL
  • 編集

[C63] Re: 年齢

sami様、

 拙ブログをご覧いただき、また「とても素晴らしいblog」とお褒めいただき、ありがとうございます。

 私の周りの年配者を見ていると、尊敬できる年配者というのは、全身からゆとりが漂っていて、相手がどんな人であろうと敬意を失わず、どんな年齢になっても物事への探究心のある方です。

>人間としてこの世に産まれてきたのなら、常に勉強をし、自分の引き出しを増やす事を怠ってはいけないと親に教わりました。
 同感です。親御さんは良いことを仰っておられますね。

 私はこれまで「正しさ」にずっと悩んできました。自分の正しさこそが「一番正しい」と思った時期もあります。その後、いろんな方に出会い、本を読んで、自分の視角は限られており、その分だけ正しさは損なわれていることを学びました。
 物事が正しく動かないと誰かが傷ついたり嫌な思いをしたりすることがある。そこで、「これが正しい」と求め、示すことは時に大事です。でも、それをどこまでも推し進めると、他人を傷つけてしまうこともある。その時に自分の正しさを放棄することが、事柄全体からすると「正しい」のではないか、そんな風に最近は考えるようになっています。そして、ある人が物事を捉えるその見方そのものは、正しいも正しくないもなく、その見えたものを教えてもらって、「ああ、あなたにはそのように見えたのですか。なるほど」とまた一つ理解が深まるきっかけになる。正しさを求めるより、今はそちらの方が大事だと思うようになっています。けれども、それは、samiさんがお書きになっておられるように、「正しさとは何だろう?」と思い考えていた時期があるからです。そう問うことはとても大切なことです。

>謙虚にいるのが一番かもしれませんね(>_<)
 そうですね。自己卑下ではなく、「自分はまだまだだ」と考えるからこそ、問い学ぶのを続けられるのだと思います。

 コメントありがとうございました。とても嬉しかったです(^^)。

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年齢と事柄の正しさ

 年齢を重ねなければわからないことはある。

 しかし、そのことが直ちに事柄の正しさを保証するわけではない。

 ある年齢になって何かがわかるということと事柄の正しさは別の話である。

 本当に正しいことは語る人の年齢や状況に関係なく正しい。

 年齢を根拠とする正しさは、正しさの名に値しない。

 言うまでもなく、年をとるのは人間誰しも生まれた時から始まっている自然現象なので、そのこと自体は正しいも正しくもない。

 高齢だから正しいわけではないし、若いから間違っているわけでもない。当り前のことだ。

 齢を重ねてみて、何かがわかった、そして一足飛びに「これが正しい」と錯覚してしまう人は、齢を重ねることの意味を誤解している。

 齢を重ねてみて「ああ、これはこういうことだったのか」とわかる、了解するのが齢を重ねる意味である。単に年を取ったというのと年を重ねることの違いはおそらくそこなのだ。

 もし誰かが、「私は90年生きてきて人生・世界がわかったから、この人生観・世界観が正しい」とか「信仰生活を60年以上送ってきて聖書がわかった。聖書はこういうことを言っている。これが正しい」と言うとすれば、その人は年齢がもたらしたものと事柄の正しさを論理的に峻別出来ていない人と言える。

 そして、その二つを峻別出来ず、よく考えていないからこそ、自分勝手な「正しさ」で他人を論評する愚を冒していることにも気づかないし、気付けない。

 あるいは、「私は信仰歴が長いから若いあなたに聖書を教えてあげましょう」という上から目線の御仁は、その人を小馬鹿にした語り口によって、聖書が読めていないことを暴露している。本当に聖書が読めて「わかった」ならそういう語り口から脱却し、変わっていくはずである。


 「書き手が並べた透明なコトバの連鎖を通して、その向う側に、書き手の心に始めから存立していた意味――つまり言語化以前のリアリティ――を理解する、それが「読む」ということだ。」(井筒俊彦『読むと書く』慶應義塾大学出版会、2009、p,422 所収の「「読む」と「書く」」より)

「読書とは事実おそらくは隔離された空間での眼に見えぬ者をパートナーとするひとつの舞踏、「墓石」との楽しい、熱狂的な舞踏なのである。」(モーリス・ブランショ『文学空間』現代思潮社、1962(1955)、p,277)

 井筒もブランショも「読む」ことは実在に触れる経験だと異口同音に言う。年齢を根拠に聖書がわかっているから教えてあげようなどと言う御仁は、そういう経験をしておらず(もしそういう経験をしていたらこんな尊大な口調にはならない)、つまり読めていないのだ。

 だから、そういう人に接して、「長く生きてきたのかもしれないけれど、敬意は抱けないな、美しくないな」と感じるなら、その人の直感は正しい。そう感じる人がたとえ10代であろうと、「あなたの方が正しい」と私は言いたい。

 「年齢」についての講義で、池田晶子さんも明快にこう述べている。「「敬老」という言い方がありますが、老人を尊敬できるのは、賢いから尊敬できるのであって、賢くないなら、やっぱり尊敬できるものではない。偉いとも感じられない。」(池田晶子『人生のほんとう』トランスビュー、2006、p,69)

 年齢の効用とは、長く生きてきたことを根拠に誰かに向かって「正しさ」を押しつけることではない。

 そうではなくて、年齢を重ねることによって、「ああ、これはこうだったのか」とわかる、あるいは「どんなに年齢を重ねても、あの人が言った意味ではわからないな~」とわかることである。

 繰り返すが、それは「了解した」ということであって、事柄の正しさとは別のことである。

 そう、それは当り前のことなのだ。
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[C62] 年齢

初めてコメントさせて頂きます。
とても素晴らしいblogを書いてらっしゃいますね。
私も11月で誕生日を迎えますが、年をとった時に尊敬される老人になりたいと思っております。

人間としてこの世に産まれてきたのなら、常に勉強をし、自分の引き出しを増やす事を怠ってはいけないと親に教わりました。
正しさとは何だろうと、思うことが最近よくあります。年上だから正しくあるべき、気配りを人一倍して模範になるように、と。しかし、正しさとはその人間の育った環境、触れた事柄で大きく左右されるものだと思っています。謙虚にいるのが一番かもしれませんね(>_<)

普段の生活でこんな話を出来る人は最近いなかったのでこの記事をみて思わずコメントさせて頂きました。いきまり失礼しました(*´∇`*)
  • 2012-11-02 01:00
  • sami
  • URL
  • 編集

[C63] Re: 年齢

sami様、

 拙ブログをご覧いただき、また「とても素晴らしいblog」とお褒めいただき、ありがとうございます。

 私の周りの年配者を見ていると、尊敬できる年配者というのは、全身からゆとりが漂っていて、相手がどんな人であろうと敬意を失わず、どんな年齢になっても物事への探究心のある方です。

>人間としてこの世に産まれてきたのなら、常に勉強をし、自分の引き出しを増やす事を怠ってはいけないと親に教わりました。
 同感です。親御さんは良いことを仰っておられますね。

 私はこれまで「正しさ」にずっと悩んできました。自分の正しさこそが「一番正しい」と思った時期もあります。その後、いろんな方に出会い、本を読んで、自分の視角は限られており、その分だけ正しさは損なわれていることを学びました。
 物事が正しく動かないと誰かが傷ついたり嫌な思いをしたりすることがある。そこで、「これが正しい」と求め、示すことは時に大事です。でも、それをどこまでも推し進めると、他人を傷つけてしまうこともある。その時に自分の正しさを放棄することが、事柄全体からすると「正しい」のではないか、そんな風に最近は考えるようになっています。そして、ある人が物事を捉えるその見方そのものは、正しいも正しくないもなく、その見えたものを教えてもらって、「ああ、あなたにはそのように見えたのですか。なるほど」とまた一つ理解が深まるきっかけになる。正しさを求めるより、今はそちらの方が大事だと思うようになっています。けれども、それは、samiさんがお書きになっておられるように、「正しさとは何だろう?」と思い考えていた時期があるからです。そう問うことはとても大切なことです。

>謙虚にいるのが一番かもしれませんね(>_<)
 そうですね。自己卑下ではなく、「自分はまだまだだ」と考えるからこそ、問い学ぶのを続けられるのだと思います。

 コメントありがとうございました。とても嬉しかったです(^^)。

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プロフィール

EMI Takashi(ヒソカ)

Author:EMI Takashi(ヒソカ)
2005年に神経性疾患を発病し、体調記録をつけるためにブログを始めました。そして、読書能力の回復に伴って、本のレビューを書くようになったものの、最近は時間を作れず、やや休止中でございます。

 数年前、出版社で働くようになりました。仕事そのものが面白く、その都度自分で課題を見つけて解決するというプロセスが楽しい。
 このブログでは、「扉の開いた」言葉を求めつつ、この世界に生きる一人の人間としてキリスト教・世界に対して疑問に思うことを考察していきます。単に評論家的な批評をするのではなく、自分でできることを示せるような、自分の持ち場に立った言葉を紡いでいきたいです。

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