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どのように師と出会うのか

 ある人から「謙遜であり続けるにはどうしたらよいでしょう?」と問われ、私はこう答えました。

 音楽でも学問でもその他の分野でも、師匠と仰げる人を持つこと。あまりに今の自分と隔絶した人であると、こちらが意気消沈するばかりですが、それでも「この人は今の私には届かない境域におられる」と素直に尊敬の念を感じられるというのは師を見出す上で大事な点でしょう。「師匠が30歳の時に比べれば今の私は知らないことや学んでいないことだらけだ。そんな私が、他人に対して上から目線でふるまうことがどうしてできようか」、師匠がいるとそう考えるようになってくる。

 以上のようなことを答えました。

 たとえその師匠が一度も会ったことのない人であろうと、死者であろうと、師匠と弟子という関係性に自分がいることは変わらない。そういう関係において自分を眺める生き方をすることが、謙遜であり続ける上での一つの道だろうと思います。

 私の答えを聞いて、「あなたはどうやってその師を見つけたのですか。あるいは師は見つけられるものなのですか」と重ねて問われた。

 この問いはとてももっともな問いなのですが、問われた時はうまく答えることができませんでした。

 この場で何とか師に出会った過程を記してみようと思います。

 2001年5月と12月、それぞれにおいて一冊の本に出会いました。

 5月の時に、ヴラジミール・ジャンケレヴィッチ『死とはなにか』、12月にエマニュエル・レヴィナス(内田樹訳)『暴力と聖性』です。

 ジャンケレヴィッチもレヴィナスもフランスのユダヤ人哲学者です。

 しかし、二人の本を手に取った時は、二人の経歴も哲学史における位置付けもどんな人かも全く知りませんでした。むしろ吸い寄せられるように、それぞれの書名が目にとまり、手に取りました。

 私は二人がどんな方なのか知りませんでした。しかし、偶然開いたページを読んで、そこに書かれていることはほとんど理解できなかったにもかかわらず、「この人は何かとても大事なことを言おうとしている」、「この私に向って語りかけている」、そんな思いを抱かせられました。

 理性の狡知はそれを錯覚と言うかもしれない。

 けれども、本に招かれた、その経験は確かなものでした。

 (新共同訳)新約聖書ヨハネによる福音書15章16節「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」という主イエスの言葉をもじって言えば、「あなたが本を選んだのではない。本があなたを選んだ」、そう表現できる経験でした。

 二人の本はどちらもすぐに読み終わり、その後、折に触れて何度も読み返しました。

 いずれも対談集という形式だったからこそ、語りかけのニュアンスがより強かったのかもしれません。

 それは五感に聞こえる声ではありませんでしたが、私は確かに、ジャンケレヴィッチ先生とレヴィナス先生の招きを聴いたのです。

 それから二人の著書を少しずつ集め、読むようになりましたが、とても歯が立たない。けれども、それは拒絶されているような感じではありませんでした。比喩的に言えば、私の体力が不十分なために山を登れないだけで、ゆっくりであっても登っていける、そう励まされているような壁でした。

 途中二人の本を読まない時期もありました。

 また、私は2005年に罹患した病気の影響で、一度読書能力を失い、むずかしい本に限らず、本がほとんど読めなくなりました。

 その困難から少しずつ回復し、むずかしい本も少しは読めるようになった頃、本を通じて一人の思想家に出会いました。

 それが、神戸女学院大学名誉教授の内田樹先生でした。

 その本に出会ったのが2009年11月のことでした。

 同時に、「内田樹?どこかで見たことあるな」と疑問に思い、すぐにレヴィナスの翻訳者であることを思い出しました。

 そして、内田先生のブログと本を集中的に読むようになりました。

 「この人を師と仰いで、本を読み学んでいこう」、こう明確に意識したわけではありませんが、漠然とした覚悟ながらも、私はそう決心し、テクストを読み始めました。

 師弟関係というものへの憧れは、「聖闘士星矢」におけるドラゴン紫龍とライブラの童虎の関係、「機動武闘伝Gガンダム」におけるドモン・カッシュと東方不敗の関係によって醸成されたものだろうと思います。

 更に遡れば、すばらしいピアノの先生に出会えた経験も影響しているでしょう。

 そういう経験を重ねることで、師への対し方というのを繰り返し学んできたのかもしれません。

 内田先生には直接お会いしたことはありません。言ってみればヴァーチャル師匠です。だから、多分私は内田先生をいささか美化しているところがあると思います。

 けれども、師弟関係は恋愛と同じで、「傍はいろいろ言うけれど、この人には偉大なものがある」と覚悟するところにしか生まれないのですから、過剰に先生を持ちあげるのは自然なことなのです。

 ピアノの師、学問上の師、オルガンの師、哲学と信仰における師、そういう人に私は恵まれました。

 けれども、それは私が自分で見つけたわけではないのです。

 仏教用語の「縁」、キリスト教的に言えば「神の働き」、そうした人智を超えた介添えがなければ、そうした人たちとは出会えなかったように今は感じています。

 しかし、それは私が立派な人間だからではないし、いわゆる信仰深い人間だからでもありません。

 そういう私の事情には全く関係なくやってきたからこそ、こういう経験は恩寵であり、恵みなのです。

 これでは、「どうやって師を見つけたのですか。あるいは師は見つけられるものなのですか」という問いの答えになっていませんね。

 というより、書いてみて気づきましたが、師は見つけられるものなのかどうか、私にはわからないのです。

 ごめんなさい。

 ただ、謙虚であるというのは、今の自分がまだまだだと自覚する俯瞰的な視点を持っているということです。

 よろしければ、2010年に書いたこの記事をお読みください。
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プロフィール

EMI Takashi(ヒソカ)

Author:EMI Takashi(ヒソカ)
2005年に神経性疾患を発病し、体調記録をつけるためにブログを始めました。そして、読書能力の回復に伴って、本のレビューを書くようになったものの、最近は時間を作れず、やや休止中でございます。

 数年前、出版社で働くようになりました。仕事そのものが面白く、その都度自分で課題を見つけて解決するというプロセスが楽しい。
 このブログでは、「扉の開いた」言葉を求めつつ、この世界に生きる一人の人間としてキリスト教・世界に対して疑問に思うことを考察していきます。単に評論家的な批評をするのではなく、自分でできることを示せるような、自分の持ち場に立った言葉を紡いでいきたいです。

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