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食事とは祝福

 昨日から映画「天のしずく」が公開された。

 料理研究家・辰巳芳子の仕事にスポットを当てると共に、農と食を通して、人の命の尊厳を改めて考え直す映像記録だという。

 私は、その少し前に、カトリックの批評家・若松英輔さんの新刊『死者との対話』に収録された講演録で、辰巳さんの名を知った。

 その講演録の最初にこうある。昨年「食と霊性」というテーマで、上智大学で講演したが、それは二十五年来の友人である伊藤幸史神父の代役だった。伊藤神父は「食」の意味を探究することで、現代にイエスの福音をよみがえらせようとしている方である。

 伊藤神父は辰巳さんと、『食の位置づけ』(東京書籍)で対談しておられる。

 「食べものを用意して、食べさせるということは、ひとつの「祝福」です」と、その対談で辰巳さんは述べておられる。

 この一節を読んで、そういう「食」をどれだけ私は経験し、また経験させていただく機会を持っているだろうか、そう自問した。

 その「食」は複雑なものではない。日常の食事がそうなっているのかという問いである。

 伊藤神父との対談の最初で、辰巳さんの簡素なおせち料理の話が出てくる。

 行事食はたいてい簡素で、「シンプルなお料理を、数少ない材料で良い味を出そうとすると、祈らなければできないし、一方で祈りやすいんですね。複雑にすると祈りにくいのです」と述べておられる。

 単純さの強調は、数年前に召天したテゼ共同体の創立者ブラザー・ロジェが言っていたことにも通じるような気がする(ちなみに彼はプロテスタントである)。

 先日買った辰巳さんの別の本を読んでいて、「辰巳さんは料理をすることそのものが祈りなのではないか」と思ったが、この伊藤神父との対談を読んで、やはりそうだったと感じた。

 この場合の祈りは、願うだけでなく、沈黙して何ものかの声を聴く営みであろう。

 別の箇所で、年を重ねると、自分のための食事作りが億劫になってくる。ある時、まな板の前で手を合わせたら、「自分のいのちは自分のものではなく、仕えていくいのちだ」と腑に落ちた。そこで、自分で自分に仕えていくんだと思ったら、荷が軽くなったと辰巳さんは述べておられる。

 日々の食卓も、自分のためだけの食卓であっても、それもまた祝福なのである。

 祝福とは、「あなたはそのままで生かされている」「あなたが存在していること、そのことがすばらしい」と告げることだ。

 辰巳芳子『食といのち』の、竹内修一神父との対談で、竹内神父が聖餐式、ミサ(聖体拝領)の話をしておられる。

 竹内神父は、イエスが多くの人たち、当時「罪人」と蔑まれていた人たちとも食事をしたことに触れている。「イエスの公生活は、食事に始まり食事に終わっている」。

 ミサとは端的に「食事」と竹内神父は言う。「ミサ」の要点は二つ。「わたしはいのちのパンである」(ヨハネ福音書6:35)と語ったイエスを記念すること、つまり、彼を忘れないでいつも思い出すということ。そのために、イエスは、見える形で食べものという極めて日常的なものの中に自らを残してくださった。もう一つは、すべての人は、同じ一つのいのちによって生かされている、ということの確認であり、そのことに対する感謝。だから、その端的なシンボルとして、一つのパンを分け合うという行為が大切にされている。

 聖餐に招くのはイエス・キリストであり、イエスは全ての人を招いておられる。

 そこに真実があると私は信じている。

 聖餐あるいはミサそのものが平和のしるしである。

 教会の聖餐式だけでなく、親しい人との一回一回の食事を、そのように祝福であるように整えていく、これを丁寧にやり続けていくことはとても尊く、意味深いことだと思う。

 クリスチャンだけが神に招かれているのではない。神はクリスチャンの専有物ではない。

 神は文字通り、全ての人を御自分の食卓に招いておられる。

 
 リンクにもあるが、私には仏僧の友人がいる。Facebookを通じて知り合った仏僧もいる。ユダヤ教徒とイスラームと神道の友人もできたらいいと願っている。

 その人たちと一緒に食事をすることもまた意味深い経験だろう。

 ちなみに、私がとても尊敬している哲学者のエマニュエル・レヴィナスは篤実なユダヤ教徒だった。

 私は彼の本を読むことを通して、聖書の読解を学んだ。

 それもあって、宗教で人を分ける発想が私にはよくわからない。それが歴史上、どういう悲劇を生んだのか、もうそろそろ自覚してもよいころではなかろうか。

 人が生きている、生かされている、その生の事実には何の差異もない。

 それはまた、人は食事をするといういのちの仕組みに組み込まれた存在だということだ。
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EMI Takashi(ヒソカ)

Author:EMI Takashi(ヒソカ)
2005年に神経性疾患を発病し、体調記録をつけるためにブログを始めました。そして、読書能力の回復に伴って、本のレビューを書くようになったものの、最近は時間を作れず、やや休止中でございます。

 数年前、出版社で働くようになりました。仕事そのものが面白く、その都度自分で課題を見つけて解決するというプロセスが楽しい。
 このブログでは、「扉の開いた」言葉を求めつつ、この世界に生きる一人の人間としてキリスト教・世界に対して疑問に思うことを考察していきます。単に評論家的な批評をするのではなく、自分でできることを示せるような、自分の持ち場に立った言葉を紡いでいきたいです。

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