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『余白の旅 思索のあと』

余白の旅―思索のあと余白の旅―思索のあと
(1980/01)
井上 洋治

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 井上洋治『余白の旅 思索のあと』日本キリスト教団出版局、1980

  著者の名を初めて知ったのは2002年頃だった。インターネット上のクリスチャンサイトで出会った、「余白さん」という方が深い尊敬の念を伴って井上神父の名を紹介された。そして、キリスト者になって、この『余白の旅』というタイトルを目にしたこともある。

 その後、しばらくは井上神父の名を忘れた。今年に入り、カトリックの批評家若松英輔さんの本に出会った。若松さんには、批評家・越知保夫の生涯と文学を書いた『神秘の夜の旅』という本がある。若松さんは、自分が越知保夫を知ったのは、井上神父の自伝『余白の旅』を読んだのがきっかけだったと、近著『死者との対話』で述べている。そして、若松さんは井上神父に師事することになったという。その記述に不思議な巡り合わせを私は感じた。また、「カトリック生活11月号」で、鵜飼清さんの「余白へのまなざし」という文章でも『余白への旅』に触れられていた。これが、私が本書を読もうとした一連のきっかけだった。

 著者は静かに己の歩みを語る。己の迷いや悩みや弱さを隠さない。絶えず自問する。それは、司祭として生きる過程で、目の前の課題や聖書や他者から絶えず問われ続けた日々を過ごしてきたからだろう。著者は、聖書の理解であれ、教会の教えであれ、呑み込み難さを感じた時はそれを大事にされ、また身体感覚を大事にされる人でもある。そこに私は好感を抱いた。

 著者は越知保夫と共にルージュモンや芥川龍之介を読むことで、「近きものへの愛」であるアガペーの道の輪郭を徐々に見いだしていく。「エロスの道は華やかであり、アガペーの道は平凡な色あせたものであるかもしれない。しかし宗教家というものは、本来芸術家でもなければ学者でもないはずである。己れに課せられた道として、自己の才能が生かされようと生かされまいと、とにかく隣人の存在をみつけていくアガペーの道を生きぬくことに徹しようと努めることこそが司祭としての道である」と考えるようになっていく。しかし、この道は、司祭に限らず、越知保夫や吉満義彦や岩下壮一や小林秀雄やガブリエル・マルセルや、そして著者が深い影響を受けたアンリ・ベルクソンの歩んだ道ではなかったか。そう言っても、著者は否定なさらないだろう。同時にそれは、人生に深い悲哀を感じつつも、なお真摯に確かなものを求める人たちにとっての道でもあろう。そういう求道性――著者はspiritualityをこう訳す――は、宗教の枠を超えた根源的なものだろう。

 著者の言う「余白」は、日々を生きる著者の経験と思索から生まれた。それは、頭だけでわかろうとするものではなく、身体全部で考える、小林秀雄の言い方をすれば、「物と交わる」、そのような関わり方をして掴める何かである。そこに飛びこんで生きてみなければ、余白も聖霊の息吹も感じられない。信仰とは本来そういうものだ。

 私自身、一人の信仰者としてもがき、悩み、あがいてきた。牧師や年配の信徒の聖書解釈を鵜呑みにせず、腑に落ちないと感じれば、なぜそう感じるのかを考えてきた。聖書の言葉で傷つけられれば、「そういう意味ではないのではないか」という呻きと共に何度も聖書を読みなおした。本書を読むことで、先を歩いていた人がいたのを発見した思いになった。そのことが慰めであった。

 一方で、私は隣人の哀しみや苦しみを顧みる余裕を失っていたこともあったのに気づかされた。次の著者の言葉に、私は深く同感する。「神を求めて一筋に走ってきたと信じていた当時の私は、いわば「遠きものへの憧れ」にとらえられ、隣人の哀しみや重みをかえりみる余裕を失っていた。その人のためにと自分では思いながら、実際にはその人を受け入れることなく、その人に自分の信念をたたきつけていることが多かった。いわば夢中で走っていて、ぶつかった相手が田圃に落っこっても気づかなかったときさえあった。私は自分なりに真剣に生きてきたと思う。しかし私には隣人の哀しみを心にうつすだけの、ふわっとした柔かな心が全く欠けていたのである。」本書は、自分を顧みる窓であった。

 J・S・バッハのカンタータ第147番の最初の合唱の歌詞はこうである、「心と口と行いと生きざまもて こをすべてキリストの証たらしむべし」。「誰も自分の一生が全体の中でどのような役割を占めているのか、自分自身では知ることができない。自分の人生がどのような意味と役割をになっているのか、それは誰しもがまた知りたいことではある。しかしそれは全体を見とおせる方だけがお知りになっておられればそれでいいのだろう。私たちにとって大切なことは、余白を感じとり、全体を感じとるということだけなのだ」、この著者の言葉とバッハのカンタータはどこかで深く通じる気がする。無私となり、己はただ神を指し示す指となる、それが信仰者や聖者の道ではなかっただろうか。
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プロフィール

EMI Takashi(ヒソカ)

Author:EMI Takashi(ヒソカ)
2005年に神経性疾患を発病し、体調記録をつけるためにブログを始めました。そして、読書能力の回復に伴って、本のレビューを書くようになったものの、最近は時間を作れず、やや休止中でございます。

 数年前、出版社で働くようになりました。仕事そのものが面白く、その都度自分で課題を見つけて解決するというプロセスが楽しい。
 このブログでは、「扉の開いた」言葉を求めつつ、この世界に生きる一人の人間としてキリスト教・世界に対して疑問に思うことを考察していきます。単に評論家的な批評をするのではなく、自分でできることを示せるような、自分の持ち場に立った言葉を紡いでいきたいです。

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