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2012年のクリスマス

 私は今年のクリスマス、自分の所属教会には行かないと決めていた。

 少なくとも、所属教会で、主キリストの降誕を祝うことは、何か冒瀆のように感じた。

 それにはいろいろ理由があるが、ここでは語らない。

 何人かの友人が、自分の教会のクリスマス礼拝に誘ってくれた。それはとてもありがたく嬉しいことだった。

 しかし、結局それも断念した。

 考えまいとしても、無意識の内に、自分の所属教会と行った先を比較してしまうことが予想されたからだ。

 せめて、クリスマスはそういう騒がしい想念とは無縁でいたかった。

 今年のクリスマスはなるべく静かに過ごそうと思った。

 とはいえ、クリスマスをどう過ごすべきかという決まりがあるわけではない。

 マスメディアが様々な仕方で発する情報=命令は、「クリスマスに一人で過ごすのはさびしい人間である」「クリスマスは恋人と過ごすべきである」「クリスマスは楽しく過ごすべきである」という偏ったものばかりだ。

 あるいは、「クリスチャンならクリスマスは教会に行くべきだ」と考えているクリスチャンもいるのかもしれない。

 しかし、クリスチャンであっても、何らかの事情で教会に行けない人はいる。

 あるいは、クリスマスを賑やかに祝うことがむずかしい人もいるだろう。

 近しい人を亡くし、悲しみと共にある人に、賑やかさは一種の暴力と解されるのかもしれない。

 12月13日の若松英輔さんの講演会を思い出す。

 若松さんは、最初、チャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』に言及された。

 ディケンズの生きた19世紀のイギリスでは、クリスマスを祝う人は少なかった。

 『クリスマス・キャロル』には「教会」という言葉は出てくるが、教会で祈っている人の姿も教会も出てこない。

 なぜだろう。

 当時のイギリス社会では、火を炊くのは労働に当たるというので、安息日に火を炊くのは禁止された。パン屋も火を止めてしまう。貧しい人たちはその余熱でパンを焼く。それを見て聖職者たちは「パンなんか焼いてないで、教会に来て献金しろ」と言う。「それは違うのではないか」と、ディケンズは言う。

 だから、この物語には教会で祈る人の姿が出てこないのだ。反対に、教会に行けない人がたくさん出てくる。

 ディケンズのいうクリスマスとは、我々が教会に集う時ではなく、街に出て、苦しんでいる人や病んでいる人たちに手を差し伸べる時である(いわゆる「施し」ではない。病む人や困窮にある人も、私たちと同じひとりの人間として大切にするということだ)。生活や困窮や貧困や病で苦しんでいる人の目の前を素通りするな、そうディケンズは言っているのだ。

 私は篤実なユダヤ教徒で哲学者であったエマニュエル・レヴィナスがマタイ福音書25章41-46節を深い感銘を抱いて引用していたことをそこに重ねた。

 教会に集うと、「「2千年前に救い主が生まれました」と説教で語られる。そんなのどうだっていいんです。そうじゃない。今目の前にいる人、苦しんでいる人に関わるのがクリスマスなのではないのか」、そう若松さんは問われた。

 私は、待降節の日々を過ごしながら、またクリスマスを迎えてからも、この時の講演のことをよく思い出した。

 クリスマスをどこでどのように過ごすのであれ、その過ごし方について、どういう言い方であろうと、他人がとやかく言うのは節度を失したふるまいである。

 少なくとも、私は他人にどう過ごすべきかを言いたくないし、言われたくもない。

 多くの友人はクリスマス礼拝に行った。そのことの是非について私は述べるつもりはないし、述べる資格もない。

 しかし、私は、今年はクリスマス礼拝に行かないことにした、ただそれだけのことだ。

 私は、ただ静かにクリスマスを過ごしたかった。

 その時、同時並行で、遠藤周作『イエスの生涯』、松原詩乃『シモーヌ・ヴェイユのキリスト教』、小林秀雄『ゴッホの手紙』を読み進めた。

 意図的にこれら3冊を選んだのではないが、共通するのは、現実には何の効果も持たない、「無力なるキリスト」「善の無力さ」という主題である。

 そしてもう一つ、無私を極めた先に、キリストという原動力を吹きこまれ、共苦する存在となる人間である。

 それは自己を拡大し、顕示するという、今の世の中に蔓延する力を求めるあり方とは根本的に異質なものである。

 思えば、佐々木中さんの『アナレクタ4』は「この熾烈なる無力を」というタイトルであった。また、神学者ユルゲン・モルトマンのある説教集のタイトルは『無力の力強さ』という。

 そう、キリストとはまさに無力な幼子として生まれたのだ。

 何の力も権威も持っていない幼子として。

 無力さ、沈黙、無私。それらが指し示すところに、私は確かなものがあるように思う。
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プロフィール

EMI Takashi(ヒソカ)

Author:EMI Takashi(ヒソカ)
 2005年に神経性疾患を発病し、体調記録をつけるためにブログを始めました。そして、読書能力の回復に伴って、本のレビューを書くようになったものの、最近は時間を作れず、やや休止中でございます。

 2017年3月末に5年勤めた出版社を辞め、4月から同じ宗教法人の他部局で働くようになりました。仕事そのものは、相変わらず楽しい。

 このブログでは、「扉の開いた」言葉を求めつつ、この世界に生きる一人の人間として疑問に思うことを考察していきます。

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